やまもとのグレーゾーン

札幌の絵描き山本雄基のきまぐれ雑感と日常。

昨夜ほろ酔いで家に帰ってきた時、家の隣の雪山ががっぽり削りとられてそこにパワーショベルやらトラックがドーンと停められていた。

これは嫌な予感だなと思ったら案の定、朝から家の脇の道路工事でガタガタガタガタ。震度2くらいで家が揺れてるんじゃないか!?

家の周りの地区は札幌でもまだ未整備部分が多いところで、袋小路があったり、入りくんだ小道が残るなかなかおもしろいとこなんだけど、ここ最近新しい道ができたり、整備が進んだり慌ただしい。
雪が降る直前には近くの公園を2割ほど削って、代わりにキレイな舗装道路ができていた。新鮮だったなーあれは。

ちなみに家の隣はなんかの整備工場、家の前にはすごく小さな昭和の美容室、その向かいにはデカいマンションという感じで、新旧が混ざった風景。

我が家もその地区整備の流れで 、あと2年経ったら取り壊されることがもともと決まっている。その時はまたアトリエを探さなければならん。家が潰されたら、新しいアパートか、駐車場などに生まれ変わるんだろうか。なんとセンチメンタルな!

住んでる場所の風景がどんどん変わっていくダイナミズムは、札幌の辺境の地にあった大学近辺でも日々体感していた。毎年建物の数が倍増して 原っぱの向こうにデカいマンション群がそびえてた印象はみるみる無くなっていき、すっかり新興住宅地になった。

なんとなく、失われていく風景に寂しさを感じながらも、新しい風景が出来ていく期待感も同時にあって、そんな気持ちのバランスが、いい作品を生み出すための一つのヒントになりそう。

ただ、地区整備のせいでゴミステーションが50mほど遠くなってしまったのが誠に残念なところ!


 黄色の絵の側面処理も終わり、表面の最後のヤスリがけ。一番丹念にヤスリをかけるので、粉の量がハンパじゃない。ヤスリの目の段階は、今は3段階。120番 150番 320番。

 320番までいくと、マットな平らにしあがり、それまでの雰囲気とは違ったオモムキがでてくるのだ。光の反射の仕方と光の入り方が一気に安定するので、絵の見え方の純度が上がる気がする。この320番の表面バージョンは、僕だけが堪能できる完成まで9割5分地点の裏バージョン。

このあと、最後にツヤありのニススプレーで仕上げるのだけど、それがまた辛くて…家が毒ガス充満になるので、本日は保留。

 同時制作中の小さな絵達も、ようやく形になってきて、あと3〜4層で、見えてくる予感。よしよし狭いアトリエの空気が充実してきた。


 夕方過ぎに街へ出向いて、訳ありで居酒屋リサーチ。のれん横丁 エムズスペース こんなおもしろそうな店があるとは。

 その足で、CAI02で開催中の、大黒 淳一 音の彫刻展をみる。こりゃあ面白かった!けっこう長い時間ふらりふらり展示空間をさまよいながら、耳と目をを傾けて鑑賞してた。謎のスピーカーからでるレーザーのような音の感じ方は新鮮だったな、なんなんだあれは。

 さらに、大学院生の飲み会に乱入、またしても山本先生と伊藤先生とお話。最近会いすぎてる。変な後輩達もいつもおもしろいね。

 ラストはなぜか山本先生の息子さんと初めて熱燗を飲みながらトーク、山本先生を家族の立場から見たストレートの意見がすごくおもしろかった。先生は深夜2時でも早朝5時でも構わず家の中で電動ヤスリの轟音を鳴らすとか。それはさすがに嫌だろうなあ。
 

本日の朝刊、北海道アートエリア21世紀という、文化欄のコーナーに載せて頂きました。家で道新をとってるかた、チラッとみてみてくださーい。

この間の久米さんから受けたインタビューを元に、記事にしてもらえたのでした。久米さん、北海道新聞さん、ありがとうございました。

やはり、立派な言葉で書かれると、日頃の自分の怠惰で適当な感じとのギャップがありすぎて恥ずかしいです。


あら映像はとっても良かったけど、なんか妙に主観的なドキュメンタリーに仕上がっちゃったのはなぜ!

最近の海系映画はサメよりイカの方が怖く見えるんだな。


鈍い黄色の絵の描写が終わり、あとは最後の透明を平らにして、ニススプレーでコーティングすれば完成だー。しかしこれがまたなにより大変で、気が重いのだが…。

いや実はしかしその前にやることがもう1つ。側面の処理…。これまた地味に面倒だ。今の作品たちの側面は、描写の邪魔にならんように、白に1層だけコーティングして平らに仕上げている。
描写による厚みが3〜5mmくらいになっていて、むき出しでその厚みを見れるようにしている。

描写中は、透明層を筆で厚塗りした後にヤスリとペインティングナイフで平らにしていくので、絵のエッジがガタガタになっていく。このガタガタをわざと残していた時期もあったけど、厚みをわかりやすく見せたいので、ガタガタを無くしてエッジをスッキリさせる必要がある。カッターで大まかにエッジを切り落として、あとは表面加工と同じように透明層とヤスリだ。面が細長いので、非常にやりづらい。

こういう処理を側面にもするので、鑑賞者は作品の土台が木製パネルだとはなかなか気付かないはずだ。そして描写の厚みがアクリル板だと思われることがあるのもエッジをスパっとさせているからだと思う。


側面のベストが今の形式で良いのかはまだわかりかねるところだ。白じゃなくてもいいかもしれないし、キャンバス地もいいかもしれない。絵具のはみ出しを許容するか、しないか。支持体の厚みもどの辺りがいいか。エッジはハードかソフトか。
むしろ額に収めてみたほうが良かったり。
もうこの辺りはフェチでいいのかも…?

いずれにしろ、描写の邪魔にならないように、かつ絵画としての存在感を意識できるような側面である必要がある。

描写が終わってから完成までが結構長くて、その作業行程がすべてめんどくさいのがとってももどかしい!

最初の木枠&下地作りと合わせて、一番やりたくない作業です。
やりたくなくても、やらないと見栄えがショボくなるので、ものぐさ自分のための心の試練だと言い聞かせながらやるのです。ああ、イヤだ!

月刊ギャラリーという雑誌の3月号に大黒屋の受賞ということで僕の記事を載せてもらいました!

表紙にもちゃっかり名前がチラリ。もし書店でみかけたらソーッと手に取ってみてください。
サッポロでは、ジュンク堂や駅前の紀伊國屋で売ってるのを確認。
先日電話インタビューされて、しどろもどろでどうなるやらでしたが、なんと3ページもの記事でした。自分で読んでみると、なんとも恥ずかしい…

月刊ギャラリーさん、ありがとうございました。

絵に透明なコーティングをする手法は元々ポルケの影響だったり大学の先輩の影響だったりするわけで、札幌内で見ても透明コーティング絵画を制作する人達は何人か思い当たる。

透明なヤツラとひとくくりにされないように、なんとかオリジナルな感じをモノにしようと頭を悩ませたこともあったなあ。
一層毎に透明層で包む方法は、さすがにめんどくさいから自分流だろうと思いたいけど、せかいはとても広いから全くそんなことはないだろう。

今は手法として必要だから使っているという感じだ。

透明層が必要な理由は、まず、丸を重ねる際に気持ちがラクになるから。
前の層までが、透明層を挟むことで常に新しい下地になる。
透明層毎にヤスリで平らにするから、筆や絵具の乗りも前の描写に影響されず、スルッと絵の具を乗せることができる。これはとても重要な要素だ。

次に、絵具が宙に浮いたようになるから。
透明層を挟むので、絵の中に光が入ってきて、絵具の影ができる。これはやってる自分としてはなかなかおもしろくて、見せかけの浮遊感を強調できるのがよい。
絵具の重なりに、実際の奥行きが生まれるので、イリュージョンとはまた違った、ミリ単位のリアリティ空間を感じることができる。


絵具は光の反射をコントロールできる不思議なモノだけど、その絵具を透明層で封じてしまう上に、透明層は平らにしてるので、絵具の直接色を跳ね返す感じに違和感を与えることもできる。だから絵がドライにクールぶってる印象を作りだせる。


僕の使ってる透明層は、重ねるとどんどんモヤがかかるのがイイところ。ただその特性のせいで、できないこともあるけれど…。

それと透明層を塗る際に、塗り方や透明絵具の固さに気をつけなければ、気泡がやたら入るのに注意。時に気泡を活かせる場合もあるが、汚く見えちゃイカン。ここが難しいのです。気泡と仲良くする方法はどこにある。

 起きて絵にヤスリをかけたり塗ったりした。玄関にクモがいた…やはりいよいよか。虫が起きるのか…。不安を感じながら外出。大通りの地下にある、日の出そばで朝ご飯。ここはよく利用する立ち食いそば屋。決して味がうまいわけじゃないが、なぜか食べたくなるんだよなーあそこを通りかかると。天ぷらそばにたっぷり一味をかけて食うのが乙。店のおばちゃん達がおばちゃんすぎておばちゃんすぎる。

 ポルトギャラリーに行き、北方圏学術情報センタープロジェクト研究芸術研究領域グループ成果報告会、のなかの美術作品展を見る。受付の学生が辛そうだった。一度見た事ある作品が半分くらいあったけど、おもしろい展示でした。しかしこの中に大学院時代の同級生が2人出品してて、2人とも大学関係で働いてる肩書きだな〜と思うと、こりゃあ負けてられんなあと思った。こっちは安月給を選んで絵に賭けとるんじゃーい!

 帰ってからマンガオタクのYと丸善に行ったら、マンガを物色してる伊藤先生に遭遇した。Yと共にマンガコーナーをしげしげと眺める先生。ああ、その筋の人たちの眼差しはすごいもんだと関心しながら僕はブルータスを立ち読み、なになにサッポロは魅力的なローカル都市ベスト3とな。
 美術手帳にゃ相対性理論+渋谷慶一郎のインタビューが載っちゃってて、なんかそれってちょっとイヤな感じもしたがまあいいや。相対性理論は周りの人だいたい聞いてるな〜 歌詞は狙いすぎてる感じもするがなんかバンド音とボーカルのバランスがとってもイイ。四月革命という曲を最近リピート中。

文庫版が新しくなってた手塚治虫全集、読みかけたまま保留にしてたシュマリを良い機会だと思って購入。魅力的ローカル都市にランクインする軽さを吹き飛ばしちゃう内容だなぁ、感動。

僕が今の絵のシリーズでやっている作業は、面倒くさいが単純だ。

とにかく、丸を描く。色のある丸と色のない丸をランダムに描く。あいだに透明層を挟む。
それだけといえば、それだけ。あとは重ね方を大いに遊ぶ。

やってておもしろいのは、一層重ねる度に、絵の雰囲気や空間が予測不可能にガラリと変わること。

7層目あたりから、重なり方が複雑になっていくので、自分の目でも今まで描いてきた丸を追えなくなってくる。意思をはみ出しちゃって勝手に複雑になっちゃった感じが、心地よいというかワクワクするというか。

色のある丸は、自分の色を各自主張する。下の層にある色の丸は、曇った色になる。強い色も弱い色も、面積の大きい色も小さい色も、等価に画面を作る一要素。
色のある丸は、色のない丸にくり貫かれることがある。

色のない丸は、空間をくり貫くことで存在感を主張する。
強い丸と弱い丸がいて、強い丸は、何層にも渡ってくり貫き力を持続させるし、弱い丸は一層くり貫いたら上の層に被せられていく。
色のない丸をわかりやすく見えるようにするために、色のフィルターをかけたりもする。フィルターを不透明にすると、図と地が反転した形がハッキリと画面の要素に加わる。半透明にすると、もやがかかったように前の層の影響を残しつつ、色のない丸を可視化させる。

出来上がった絵を簡単に言うと、アリジゴク的水玉模様だ。

水玉模様ってだれが発明したのか、いたる所で見かける。おかげで、一見僕の絵は水玉模様として認知されてトッツキやすさをかもし出す。そこから、1つ1つの丸を追うと、画面の揺らぎに迷い混んでいく…はず?

迷い混みの感覚は、例えばなんか無駄なことをいろいろ考えてて、それが頭の中でスケールがでかくなりすぎて、収拾つかなくなって、愕然としたあと、さあ明日も頑張ろう、と我にかえるアノ感じに似せたいと思っている。

だからできるだけ、鑑賞者には長時間絵と向き合って、丸を追ってほしいなー。
どんな絵でも、一枚を鑑賞するのはなかなか時間がかかる。

丸を重ねる研究にワクワクさせられてるうちはまだまだこのシリーズ続きそうだ。試したい重ねアイデアが貯まって、制作スピードが全然追い付いてない。

2週間くらい前だったか、歩いてたら突然地球儀のことが気になりだした。

以来、仕事してる間すら地球儀になんとなく思いを馳せている。なぜ、今部屋に地球儀がないんだ?といった具合に。

先日アリオの丸善に行ったら、あらなんとタイムリー、地球儀コーナーがあったので、鼻息がやや荒くなった。

手に取ってサワサワしてみる。そしてクルクルしてみる。
う〜んなんてすばらしいオブジェクトだ!
全体の形が、いい。台座に支えられた球の感じ。
球の傾きがまた、たまらない!なんでこんな絶妙な角度に傾いてんの地球。いや、逆か。もともとこの角度に傾いている星に生まれたから、この角度が絶妙だと思うのはアタリマエなのか。

地球を模したこの物体を、なぜ、カッコ良いと思ってしまうんだろか。
この、いかにも地球儀らしい原型は、やはり地球が浮いてて傾いてて回ってるという要素を、できるだけ詰め込んだ結果から生まれた型なんだろな。いいなぁ。

丸ばっか描いてる身ですが、なんたってまず宇宙に浮かぶ星が丸いってこと、が、いいですよねぇ。少年ロマン。もう僕の年齢は少年ではなく男の人だけども、少年ロマンは男の人になっても大切。ちなみに僕の少年ロマンは小さな頃に地元帯広近辺のさらに田舎に住んでて、星がキレイに見えていた環境によって育まれたような気がする。

子供の頃には小さな学習地球儀が家にあった。南アメリカ大陸が人の顔に見えてしまったり、どこかの地名の響きがなんか嫌な感じで、無意味にちょっとした嫌悪感というか怖さがあった。それでもたまにクルクルしたり、しげしげ眺めたり大事にしてたが、ある時表面がベロっ!と剥がれてしまったんだよな。

ああ、地球儀が欲しい。欲しい。結構高くて買えない。だからブームが過ぎるのをじっと待つのです。

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