やまもとのグレーゾーン

札幌の絵描き山本雄基のきまぐれ雑感と日常。

ゼルダの伝説時のオカリナ以来、実に約18年ぶりくらいにシリーズ新作、ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドをクリアした。ここ最近は制作スケジュールがタイトすぎて、ゲームを買ってもつまみ食い程度にしかやる余裕が無くて泣く泣く趣味としての優先順位を下げざるをえなかったのだが、この作品に関しては時間が無くても止められず、どうにか時間を削りながら125時間ほど費やすことになった。驚き。実は発売前はやる気があまりなかった。その気持ちを変えたのは発売直前の3rdトレーラーおよび、ゲームセンターDXの濱口さんのプレイ動画による。



ゲームそのものからの気迫というか、傑作の予感がビシビシ。
予感は当たったどころか大幅に超えてきた!ので、感想というかレビューというか。

ゲーム史のとても大きなポイントに触れた感覚。 
映像作品と違って、このようなゲーム作品は時空間に対して能動的、とりわけ今作は場の設定が広く自由度が高い。ゼルダは特にシステムありきで人物設定やストーリーが組み立てられているので、まず場づくり自体への創造性を確認することに意識が向く。
天気や温度、昼夜の環境変化の中でシームレスな世界中を探索して回ること。
物理法則を操る謎解きというかもっと自由度の高い遊びの感覚、ものをどこまでも持って行ったり遠くに弾いたり正攻法以外の遊びに溢れている素晴らしさも相まって、とにかく空間全体が今までで一番生きている感じ、空気や生命に満ちている感じがする。
重力は現実世界よりもちょっと軽めに感じたけれど、それは移動のストレスを感じさせないいいバランス。 
しかも今作の世界観は写実方向ではなく、過去シリーズでも何度か採用されたデフォルメ絵の世界がベースになっているので、絵の抽象性が常に用意されてるんだよな。それは容量とかグラフィック性能の限界からという理由もあるんだろうけど、グレーを混ぜた発色のマットな質感のペイント調の色彩設計によるトゥーン調のベタ塗り世界(にも関わらず空間感のある独特さ)の良さは色々な問題解決に役立っているんだろう。
3D空間のゲームって基本的には彫刻的で、絵の抽象性が減ってしまうことがずっと気になっていた。特にマリオなんかは3Dモデルにしてから失ったものも多い。それは最近の3Dモデルで作ってた2Dマリオに顕著で、3Dモデルで作っていることで世界が狭く感じるんだよな。(解像度高めの3D世界で同様の抽象性を発生させるには、ズートピアみたいに一度では見きれない過剰な情報量を作り込む方向になるのでは)
今作は絵の世界がベースなおかげでどこをデフォルメして、どこをリアルに設定するかのシステムバランスも、その抽象性を利用することで破綻なく成立しやすいのかも。つか、その辺のデフォルメの調整がうますぎるんだろうな。例えば木を切ってすぐ薪になる、ケモノを倒してすぐ肉になる、鍋に素材突っ込んですぐ料理になる、みたいな要素はリアル空間では違和感になるはずだ。

それに、例えば「君の名は。」の背景にグッと感じるような、日光の色調が強くて眩しい美的という今風の色調で世界が描かれていたり、王道の冒険活劇や古代文明との関わりという点では「天空の城ラピュタ」的なイメージを明らかに踏襲していて、主要キャラクターのキャラ設定など、そういう点でも実写映画からではなくアニメ世界からのゲーム派生というしっくり感がある。かと言ってアニメアニメしすぎてないところがまたいい塩梅なんだよね。

そういった特色のある広〜い場が用意され、プレイヤーがどう振る舞うか、何が起こると面白さになるかが予測された上で仕掛けが用意されている。ウロウロしたりキョロキョロしてたら何かしら怪しい場所に当たり、行動を起こすと自分にご褒美(体力、お金、装備、など)が与えられる。このテンポの良さが絶妙で、適度な頭の体操をしながらパズルを解ける。ご褒美が増えることによってリンクが強化され探索がしやすくなって、もっと行きづらいエリアにも挑戦しやすくなる。

体力ゲージがもつ限り壁にも登れるので、チュートリアルが終わった段階で実際どこにでも行けるけど(チュートリアルがある意味一番難しくて、何度もゲームオーバーになることに対する慣れも学習できる)、はじまりの大地から解放されて世界が開かれた時の心細さときたら、素晴らしいよ。
エリアごとの難易度設定が精神的な意味で壁になっとる。山がやたら高いとか、気候が厳しいとか、強い敵が配置されているとか。僕はビビりなので、遠くに一体はぐれガーディアンやライネルなど強そうなのが見えたら、自分がかなり強くなるまでその周辺に近づかないようにしていた。
テクニックでもアイデアでも正攻法でリンクを強くしてでもエリア探索に挑戦できて、それぞれにやりがいが与えられている。
謎解きと戦闘がほぼ分離されているなど、理不尽要素がかなり少ないので今までよりも簡単に感じるのだが、それもストレスにはならずむしろ世界の体感の持続を邪魔しないための適度なバランスに思えた。
最終的にフル装備・能力解放になった時点での難易度を低めに設定して、どこまで自身の強化をしてからどこに行くか、そのプロセスはかなり好き放題、ここのさじ加減もゲームの面白さとして大きな柱を設定してるのよね。 
ストーリーの進行すら探索に委ねていて、忘れた記憶の断片を各地で回収することで物語による世界観の厚みを実感させていくという構造からは、感情が場に記憶されているという体感までもたらす。単なる機械的なフィールドではないのだ。

まあとにかくその探索が止められない。僕はしばらくは敵を避けながら高いところに登って、双眼鏡で360度景色を見渡して、怪しいところへ向かってご褒美を得る、の繰り返しというプレイスタイルだったんだけど、そのバリエーションが飽きない。山を登る楽しさをゲームで感じたことなんてあっただろうか。探索に特化した大地のデザインにまんまとヤラれた感。
僕は「パイロットウィングス」シリーズが好きで、SFC,64,3DSとプレイしてきた。今回のメインアクションとなるパラセールによる高所からの滑空の素晴らしさは、あのゲーム独特の空中感覚にも近い。世界を俯瞰移動できる良さ。右スティックでカメラを動かせば滑空中にも美しい空気の層を含んだ風景も堪能。
あああなんなんだ、このゲームの「体感」の感触は。 
 

また音楽の扱われ方もとても良い。草原や戦闘シーンは70年代のアンビエントやミニマル風でゲーム内の環境音に馴染むしちゃんと聞いてるとカッコ良く、決めの場面ではフルオーケストラまで幅も広く格調高い感じ。そして移動や時間による音楽の切り替わりの滑らかさが世界観と一致していた。

お話の中心はゼルダ姫の成長物語で、実質主役っていうところも良い。姫の設定が考古学オタクというところも良い。姫だけでなく、英傑やカッシーワなど、キャラデザインもなんというか媚びてない感じがいい。狂信組織っぽい(描かれ方はコミカルな)イーガ団の存在や、女性のみのゲルドの街のゲルド族は世界に散らばって婚活もしているなどの設定も含め、いつも通り独特の個性を持っており、敵を遠くから双眼鏡で観察していても、多彩な行動パターンが覗ける。こういうところも世界が生き生きしている要因。
時オカ以降の、人物に話しかけるとうめき声みたいなのが出る仕組みもそのままなのがいい。フルボイスよりも面白みがある気がする。リンク自身はしゃべらないが、テキストの選択肢が微妙なラインでユーモアを含む(風よりカネだ、とか)あの独特な遊び心で、無個性ってわけでもないんだよな。


いやあまだまだ書ききれないほどの魅力。。。
子供の頃にスーパーマリオブラザーズに心奪われた感覚を、
ゲームによって再び思い出した。 今までのゲーム体験で確実にベスト3に入る。
つかゲーム体験というか、これは優れた美術作品や映画の鑑賞、読書などと同じレベルで(最後までやるには100時間以上かかるのが難点といえば難点だが)、ここまでの衝撃は他メディアでもなかなかないよ。
今の子供達は子供の頃からこんな豪華でリッチな体感がゲームでできるんだなあ。。。 
つか、面白すぎて、
久々に絵を創造する面白さに対してほんの一瞬だが大きな敗北感を感じてしまい困惑したので、
こうしてこれまた久々にブログをまとめて数記事書いて落ち着かなければという状況に陥ったのだった。 

一つだけ、料理がゲームとしては微妙だったな。レシピも記録されないし、ミニチャレンジで要求される内容も見返りも大した嬉しさがないんだよな。しかしそのため逆にレシピにこだわらずテキトーに必要な効果の料理を作れるので問題はない。
俺にとっては、現実世界でもゼルダ世界でも料理は面倒だったということか。 


この記事で今作に対し「可能性空間」という表現を当てていたけど、なんて良いニュアンスだろう。
「情報を自分の身体で咀嚼する」物作りの話も納得。↓
【ゼルダ新作は2D、3D…に続く第三の波をゲーム史にもたらすか?ゲームデザインの徹底分析で浮かぶ任天堂の"新境地"】
http://news.denfaminicogamer.jp/kikakuthetower/zelda-okamoto



ちなみに任天堂の絵のクオリティやアニメーションとの接点の元々の話は公式のこれが面白い。↓
【社長が訊く『ニンテンドーDSi』小田部洋一さんと『うごくメモ帳』篇】


(写真は近所を歩いてて、コ、コログが。。。とつい思ってしまった場所)
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(2017.10追記)
ブレワイ関係の記事はどれも読み応えあるものが多い。
これとか。
http://www.4gamer.net/games/341/G034168/20170901120/
これも。
http://news.denfaminicogamer.jp/projectbook/zelda 

いつのまにやら複数のギャラリーなどと一緒に仕事するようになって、
以前はこのブログなんかでも身の回りの画家生活をダダ漏らし書きしてたのに、
なんでもダダ漏らすと自分ごとだけじゃ無くなってくるのでイカンし、
自分ごとの部分だけを抽出して書かねばと思い始めると、
ん〜、、書くスピードが低下する、ひいてはストップ、
みたいになっちゃうのを、どうにかしておきたいものだ。 

高校の頃、爆笑オンエアバトルという番組が流行していて、
流行に反発して出来るだけ見ないようにしていた。
決してお笑いが嫌いなわけではないが、
コミュニケーションのすべてがお笑いの影響下になるのが嫌だったのかもしれない。 
ボケかツッコミに役割を集約されて、そのルール上で生きなければならないことはなかなか辛いものがある。どっちでもないですわ!!っていう僕のような人はどうすりゃいいのよ。
どうするわけでもなく、「シュール」というその他意味不明な人、 あるいは「下ネタ」な人、「いじられキャラ」、などにカテゴライズされる。
それすら疑問で、なんとなくそういうすべてのレッテルに属したくないような位置取りをしていた気がする。ふと。

以前、バーゼルでいろんなアートフェアを初めて見た時にこんな記事を書いた。
http://yamamotograyzone.ldblog.jp/archives/52140866.html
 
『「周辺」の大多数感、とにかく作品作ってる人も作品売ってるギャラリーもめちゃくちゃ大勢いて、
自分も続けていけばこの雑多な中にはもしかしたら飛び込んでいけるかもしれないが、
その後この膨大な数のハンパな雑多な中に埋もれたまま抜け出せずに萎んでいくのは、、、』
 
こう思ってからもう5年も経っちゃった。 
現状はハンブルグ、台湾、札幌と3つのギャラリーと一緒に仕事するようになって、
年に2回ほど東京と台北でギャラリーからアートフェア参加、
加えて毎年栃木の大黒屋さんでも発表させて頂いている。
それぞれの場で発表作を販売していただいているおかげで、
なんとか画家として生活できるようになった。

そのこと自体を、
「フルタイムアーティストの」「札幌で唯一それで食べていけてる」(実はそんなこともなく他にもいるんだけど) という風に紹介されてやや困惑する(作品の内容の話に無関心をキメられるとなお困る)こともあると同時に、バーゼルで感じたことをふと思い出すことがある。
「札幌」というフィルタを外せば、世界中の名前も知らない認識しきれないほど大多数のギャラリーとアーティストがおそらく食べて行けているのだ。そしてその雑多の中に僕もいる状態になっている。

もっと先のことをイメージして、現在の膨大な雑多なゾーンからさらに次の領域を目指すため、そ
のための行動を意識していかなければ。
それぞれのギャラリーにも希望欲望をガンガン伝えているし(広い空間で3m級の作品ならべた個展やりたいとか、どういう思考を元に制作してるか認識してほしいとか、誰々に見て欲しいとか、カタログ作りたいとか、〇〇に掲載されたいとか、〇〇美術館で展示したいとか収蔵されたいとか)、
自分が話せることはできるだけ話している。
ハンブルグMikiko Sato Galleryと台北Admira Galleryではそれぞれのギャラリーがとっても頑張ってくれて美術雑誌に掲載してもらったし、
札幌のギャラリー門馬さんから発行してもらったカタログの編集は自らもやった。

今自分のBioに足りないのはグループ展の新しい参加歴やパブリックコレクションだが、
焦ったり姑息なことを考えたりせずに、作品を作り発表しながら地道に活動するのみ。
結局、一番難しいのは
絵画とは美術とは何かをさらに深く研究し、作品にフィードバックさせていきながら、
ここだという場で良い展示をしていくという超基本をずーっと持続させることだ。

札幌に活動拠点を置くにあたってのデメリットは、
・良い作品を見たいときは大抵の場合、飛行機に乗って遠方に行く必要がある。
→フットワークは常に軽く。良い作品は自分で作る。足元の価値を見つける。

・スタジオビジットなどに恵まれにくい。
→少ない機会を逃さないためのアンテナを張っておく。外から来たくなるようなスタジオ環境を作る。

・どっぷり美術に浸かっている、話ができる人が少ない。
→少ないながらいるんだから大事に。逆に集中できるでしょ。こちらから話しまくって、話せる人たちを増やす。

このように30代後半を見据えたい。

札幌で美術(現代美術?)をやっていると、
使命感に駆られる瞬間がある。アートシーンを自分らで何とかしなければ、という感情。 
きっと地方で活動していたらどこでも、そういう感覚あるだろう。
美術家が作品制作だけでなく、スペースを運営したり、学校を作ったり、プロジェクトを起こす。
また、ちょっとでも西洋美術史をかじり始めると、すぐにボイスの「社会彫刻」というマジックワードがその使命感に拍車をかけてきて、連続して「フルクサスが」「ソーホーがチェルシーが」などと数々の実例が用意されている。

そういう運動に敬意は払っており、時にはお手伝いなんかもしながら、
僕自身の活動はその感覚とは常に距離を置こうと意識してきたような気がする。
時には複数の方々から、やれ、やれ、と言われながらも、そ〜っとかわし続けてきた笑
向いてないから。

ちなみにワークショップブームにはやや疑念を持っている。
何かとイージーに教育目的としてアーティストにワークショップをやらせる傾向があるが、
これも向いてるアーティストはやればいいし、向いてないアーティストにまでワークショップを強要するのは反対である。

とにかく、僕はいかに作品の制作と思考に時間を割けるか、に絞って力を注いできた。
多彩さは持ち合わせていないので作品を良くしようとするだけで精一杯だしそこは簡単に負けない自負もある。他のことをしてる余裕もないし、やりたくないことはできる限りやらないのも作品の質のため。

まあ典型的な引きこもり系絵描きのわがままに過ぎないのかもしれないが、
札幌という地方仮説がそのわがまま感を勝手に助長しているのではないか。
だとしたらそれは美徳に思えぬ。
例えばベルリンで、NYで、「抽象絵画の問題」に集中している画家に対抗するには、
札幌が〜とも言ってられない。
ローカル性を取っ払う。抽象表現はまさに、時代も地域も取っ払う。いや、取っぱらいながら同時に潜ませる、という言い方が我が基本意図としてホントは正しいんだけど、この言い方がいつもややこしく伝わりづらいのがジレンマ。
仮に超ビッグになっちゃえば、それ自体でシーンは変えられるだろうし。。。

ベルリンに行って戻ってきて考え方は変わっても、作風自体は大きく変わらなかった。
都会という抽象的なまやかしの中で生きるのがリアルなのであれば、ユニクロで服を買うこともスタバでチャイラテ飲むことも拒否してないしグローバリズムをある程度肯定的に見ているということであって、フラットな場として札幌を選ぶ、ってのもそろそろアリかなあなんて思ってみたり。
そもそも地元が札幌でなかった僕にとって、札幌とはまさに匿名的で憧れの「大都会」の象徴であった。
住んでみてその魅力的なローカル性もまた後々自覚はできても、根の張れる意識までには至らない。
いろんな美術の生き方を尊重する、その代わりそれぞれの選択がそれぞれハイクオリティであること。
これがシーンに望むこと。
 

「札幌には美術批評が無い」とは定期的にどこからともなく聞こえて来る定型文だ。
久々にこの定型文が聞こえてきたので少し追ってみたら、得るものはなかった。 

そもそもだ、
もし「札幌には美術批評が無い」と言っているのが例えば美術家及び企画者や学芸員やギャラリストだとしたら、
おいおい何言ってんの!!てことを書いておきたい。
特に現代美術家の場合、作品には何かしらの批評要素が入っているはずであり、
企画展や企画ギャラリーは展示コンセプトや作家のセレクトがそのままある意味批評となる。
この辺が起点となって初めて批評は連鎖していくのだと思うんだけど。
批評家の不在を嘆く前に、まず自分らの主体性だろう。

そしてだ、
僕も札幌で美術家をやってます。
これでも学生の頃から今に至るまで、述べたように批評精神を持って活動してきたつもりなので、
批評が無いと言われるのはちょっと心外である。 
僕が学生の頃2000代前半は、オルタナティブスペースの動きが盛んで、若手がユニットを組んで現代美術らしい活動も盛んに見えた。ホワイトキューブから出ないとイカンとも言われた。
ゆえに絵画は相対的に相手にされづらいメディアであった。
そういううねりの中で絵画を続けて来たことも、団体公募展に出してた頃はいかに規定と保守性を破壊すべきかばかり考えた絵画作品を提出していたことも、このブログでもたまに、批評を含めてきたたつもりなんだけどなあ。

今現在僕は、札幌市内で個展をやる際、企画ギャラリーだったらギャラリー門馬さんだけと決めている。
自分との相性や、作家選定のセンスなど総合的に考えて、ドイツからの帰国後にお世話になっている。
これも(札幌においてのみ)批評の態度だと思ってます。
未だに、年に何度か市内の複数の企画ギャラリーで個展を開催する美術家が多いように思うのだけど、
それだとどのギャラリーも差異がなくなるし、作家のポリシーもよくわからんのよね。
 
ちなみにギャラリー門馬からは2冊のカタログも作って頂いてる。
必ず日英でテキストを付けており、自作の実物を見た上で評価していただいた方に無理やりお願いして、
このテキスト内容も美術批評として成立しているはず。
というわけなので、無くは、ない!!!

いや僕だけでなく、少なくとも周りの美術家数人は明確にそういう意識を持ってやっているはずだ。
みんなとても勉強家で、たびたび国内外どこにでも出かけて良質な展示を見て互いに意見交換してる。
お金も時間も無かろうが、やってるのだ。

 

4度目のアートフェア東京参加。

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去年に続きギャラリー門馬ブースでソロ展示をさせていただいた。
ギャラリストの大井さん一人でやっているギャラリーなので、
毎年展示と受付のお手伝いを作家も一緒になってやっている。
フェア独特のスピード感や鑑賞環境として良いとは思えない会場にずーっといるのは作家としてはなかなか複雑な面もあるけれど、こういうタイプのギャラリーはあんま無いので状況を楽しんでいる。
それに東京で展示できる貴重な機会なので、自ら展示構成をやってギャラリーでの個展と同じだと思ってやっているのだ。
それでも名乗らないと、未だにスタッフだと思われている場合が多い笑。
 
ブレビューの段階から例年よりお客さんがさらに増えており、連日ぎゅうぎゅう。
4年連続出展していると、ギャラリー門馬めがけて毎年見に来てくれる方も、買ってくれる方も随分増えた。 自動的に増えたわけではなく、ギャラリストの大井さんが個別の連絡や広報をしっかりやってくれているからだと受付をやりながら実感した。お客さんの反応からそれがわかるんだよなあ。
受ける質問も「どうやって作るのか」がほとんどだった状況から、どういうプロセスを経てこういう作風になったのかとか、意図とかも聞かれる回数が増えてきた気がする。
 
オープニングの挨拶で某庁長官や渦中の某政治家夫人がスピーチしてたなど色々内容がムムム的だったとの話もあるが(毎年のこと)、出展してる側からすればそれを聞きに行く余裕もなければ、そもそも内容など誰も期待してないだろうしお飾り文化程度にしか思わない。
むしろ聞こえてきた話として問題だと思ったのは、ロゴをデザイナーの許可なしに勝手に変更して使っていただとか、VIPチケットを事前購入した人があらかじめネットで情報登録したにも関わらず入り口でまた同じことを書かされてすぐに入場できなかったとか、運営側の話。
そういうのは出展する側としても非常に困るのでなんとかしてほしい。 

板室温泉大黒屋にて、4度目の個展。
今回はメインの奥壁に正方形の作品を一枚だけ、その他全体的に絵の間隔にゆとりをもたせてみた。
普段は奥壁の窓側に置かれているグランドピアノの場所を、見栄え上の問題で移動してもらった。
2回目の個展の時も大きい絵がピアノで隠れてしまうため移動してもらったので、ピアノ移動させマンになりつつある。
1、2回目くらいはとにかく見せたい見せたいという気負いがあったけれど、最近はもう少し気持ちにも余裕が出てきて、こういう展示の仕方及び、イレギュラーな構図の作品や、思い切って抜きの多い作品も用意したり。
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詳しくは大黒屋さんのブログにて。
http://itamuro-daikokuya.blogspot.jp/2017/02/2.html

1月、2月、3月と立て続けに関東方面での展示があるので今年は年始から制作詰め。
真冬の制作詰めは本当キツい。そして梱包もキツい。

北海道外、及び国外に作品を送ることが増えてきて、作品の売り上げも増えてきたので
その度に梱包のクオリティもちょっとずつ上がってきてる。 

以前若者と梱包の話をしてて、軽くお説教したことがある。
曰く、グループ展の搬入のための運搬を赤帽さんに頼んだら、扱いが荒くて通路の壁にぶつけられたりしたので信用できん、とかなんとか。似たようなこというやつ、結構いそう。
それに文句言うなら金稼いでウン十万円の美術梱包雇ってみなさい。赤帽さんのように安価でモノ運んでくれるサービスにどこまで自意識過剰にサービス求めるんじゃい。むしろ得体の知れない生意気な自称美術家の梱包を運んでくれることに感謝しやがれ。そんなに作品が大事だったら、どんな運搬にも耐えられる梱包を自分でするのが当たり前だろボケえ! 
。。。と堂々と言えるようになったのは、ドイツ生活でタフになったからかもしれん。
ドイツでは小包を届けてもらった際、チャイムが壊れてたらしく電話で連絡があり、玄関に出てみたら配達員にブチ切れられてびっくりした記憶がある。うん日本人、サービスに甘えすぎてました!て思った。 


自作は表面がアクリル絵具のグロスのバーニッシュでフラット仕上げのため跡がつきやすい。
直接プチプチは完全にアウト。紙もいろいろ試して、クッツカーネという専用の梱包紙ですらくっつきはしないけど跡がついてしまうし、一番有効だと思われていたレーヨン紙でも長期間はアウト。
結局表面に何も当たらないように箱に固定するのが一番という結論になった。

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1×4の木材を組み、

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最後ダンボールで包みやすくなるように凹み部分もできるだけ無くしておいて、

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裏の木材に作品をビスで固定し、(ここはまだより良い方法がある気がしている)

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表面は多めに支え木を。

写真 2017-01-26 5 27 39
 プラダンで保護。

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厚いダンボールで包んでPPバンド張って完成。 


小さい作品も同様に。
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このくらいやれば、大抵の国内輸送は大丈夫。
ただ毎回作品完成後にこのプロセスが待ってるのは イヤすぎるので、
これ専門のアシスタントが欲しい。。。今は配偶者を強制的に手伝わせている。 

札幌から台北までは関空経由の便だったので、帰りに大阪に寄る。

ちょうど今年ホルベインスカラシップ奨学生にも選ばれたり特注品をお願いしてたり何かとご縁のある、ホルベイン工業の絵具工場見学目的だ。

観光ではまず行かないだろうエリアに赴くと見えてきた工場。これはテンション上がりますわ!
初めて見る専門の機械が並ぶ中で、担当の方から説明を受ける。
顔料とエマルジョンを精細に混ぜるローラー、 混ぜた絵具から気泡を除去するための真空機、耐光性をチェックするための箱、粘度を調べる機械、、、次々に繰り出される色の品質安定や発色へのオタク的アプローチの数々。質疑応答はつい延長戦、授業状態となる。

以前、ドイツで大きな作品を購入してくれたお客さんから、とにかく耐久性のことを何度も聞かれたことがあった。この絵画は10年保つか?パネルはどんな素材か?絵具はどこのメーカーのどの種類か?などなど。その時の回答として、同じ素材と同じアプローチで作った7年前の作品は劣化していないことを確認しているので最低でも7年は大丈夫とか、使ったメーカーの画材は口頭で説明したのち素材を写メして後でギャラリーに送ったりした。
そんな質問は初めてだったが、そりゃそうだ、100万円レベルの買い物だもの確認人できることはしておきたいよね。。。
それ以来、素材に対する自意識を強めに持つようにしていたので、今回の訪問は悲願であった。
直接画材研究しているメーカーとの関係性を持てる強みよ。ありがたい。
 
絵具製造過程の中には想像以上に手作業感も多く、僕の特注絵具を混ぜてくれている技術者さんからは「これはじゃじゃ馬って呼んでるんですよ(笑)」と。混ぜ方を間違えると、ある粒子が摩擦で熱を持ってしまって均等な粘度にならず塊が発生するんだって。最近ようやくそのさじ加減がわかってきたんだとか。ふへ〜、頭が下がります。。。
化学実験室のようでありながら、町工場的なアナログ感もあって、絵具に対する愛着が全く変わってくる。アクリル絵具はいかにも工業的でそこが気に入っているんだけれども、それでいて絵具そのものに人の気配を意識することができるようになったのは大きいなあ。 

同じ日の僕が来る前にも、外国の絵描きさんが工場見学に来てたらしく定期的な見学需要があるようだ。
北海道からはなかなか遠いけど、今は飛行機も安いし画学生有志で団体見学ツアーとかオススメしたい。 

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