ある限定されたコミュニティに知らないうちに所属して、知らないうちにそのコミュニティでの価値観を持って、ある程度共有しながら生きていくのが、人としてフツーのことだ。

 例えば「芸術」というコミュニティ、「会社」というコミュニティ、「同級生」というコミュニティ、自分も知らぬ間に無所属ではいられずに、何らかの価値観におすわりしている。

 世の中には自分に全く関係のないコミュニティがある。自分が所属し得ないようなコミュニティがあって、そこでは全く自分の価値観が通じないような現象も起こる。

 そんな中で、価値観が通じないコミュ二ティが存在するということはとても難しい問題だ。うまく棲み分けができればいいのに、ヘタに相性の悪いコミュニティが接触した場合、憎しみや恨みにも繋がってしまうこともあるみたい。

 そういう時に生じる、モヤのようにつかみどころのない歪みの正体に僕はなんとなく興味をそそられてしまう。
 モヤをぱくっと食べて、自分自身がモヤのようにそのへんを漂っちゃうような感覚でいたいという願望が若干ながら存在する。

 モヤの中には、人が持つあらゆる感情の導火線が潜んでいて、モヤモヤ仙人が、ライターを持ってウロウロしている。そんなイメージ。

 何を言っているのか、伝わらないような気がするけど、こういう漠然としたことを考えるような機会があったということで、さらに漠然とこの文は続いてしまう。
 
 さて、そして改めて、僕はやっぱり本当はあんまり人のことが好きじゃないのかなあ…と考えてみたりしているけど、
 どうやら人のことというか、知らぬ間に負の感情に気持ちが囚われている状態やコミュニティの価値観に囚われている状態の人を感知したときに、どうしよもないやるせなさを感じてしまうのではないだろうか。

 その「やるせなさ」だ!これを、「やるせねえなーぁ」ってため息ついてる前に、キャッチして結晶化させたいのだ。
 どうしよもないこと、抗えないこと、は、人が人である以上(自分も含めて人って本当に欠陥だらけだし←それを否定するつもりはない)、必ず発生する事象なもんで、「それもしょうがねえやぁ、でもやるせねぇやぁ…」って思った中に、モヤが発生するんだ。

モヤを抽出したような要素を、作品の中になんとか込めたいと日頃からボワーッと思っている。
僕はただキレイで明るいユートピア傾向な作品を作るつもりは無くて、人のネガポジを含めてまずはそれを事実として腰を据えるところから始めたい。

 この漠然とした考えをウチに持ち帰って、壁にかけている自分の作品とにらめっこをしてみると、まだうまく形にできてない、モヤ純度を上げるためには足りない要素があるような気がしてならない。

人間なんてラララララ〜!