毎年12月になると、
山本雄基&笠見康大 with 小林麻美
という絵描きプチ忘年会が発生する。
正確には発生するというより、僕らのアコガレお姉さんである、小林さん(以下あっちさん)を半ば強引に誘って話をする企画だ。笑
笠見君とはいつもあーだこーだ話してるけど、そこにあっちさんという強力な調味料をブレンドし、新たなテイストにエキサイトしたいのです。

ちなみに、笠見君の先輩が僕で、さらに先輩があっちさん。学生時代より同じアトリエで切磋琢磨してきた。
あっちさんには何度も助けてもらった。教授と険悪な関係になりそうなところを仲裁に入ってもらったり、
悶々としてウザウザしい制作の悩みをぶちまけさせてくれたり、恥ずかしい当時の若気の至りっぷりにもいろいろ対応してもらってきた。

3人とも卒業後も制作発表を続けており、かつ絵画についてかなり考えている。
笠見君もあっちさんも、油彩で、タッチを残し、湿っぽい、ドロンとした、雰囲気を持っており、
それは僕の軽ーくてドライなアクリル絵画には無い要素なので、勉強させて貰っている。
頼もしいし、僕を残して誰かが一気抜きん出てにドーンと絵画の大舞台に行っちゃうんじゃないかという緊張感がある。
なので毎年この3人会では熱い画家同士としての話をしようと意気込むも、結局僕だけ酔っぱらって自分のムダ話をして終わるという情けない展開になる。
あっちさんはお酒を飲まないので、よし今回はノンアルコールでガチ美術トークを!!と肩肘を貼る。

話は最近の近場のいろんな展示の感想や、何を考えて描いているか、デュマスやトレスの話や、芸術とか宗教の話や、上海ビエンナーレや札幌はどうなるやら、
、やっといろいろ風呂敷を広げてノッてきたところでタイムアップ!!あらー全く時間が足りません!

帰って来てから、もう一軒強引にハシゴすべきだったか、とか、もっといろいろ突っ込むべきことはあるだろう!と自省した。←毎度のこと。
とりあえずお互いの絵の話が足りなかったので…そこを書き留めてみることにした。

笠見君の近作は先日某公募展で見ることができた。

以前は目止めしたキャンバスにテクニカルなボカシをつかってフラット且つストロークが際立つような画面を作っていて、
そこに光のような点がポツポツ配置されているような画風だった。
形として見えているのはボケた点のみなんだけど、
どこかグロテスクというか血なまぐささというか痛い感覚、と絵画のキモチよさやキレイさが
表現の中に混在している。

最近は筆の種類も塗り方も多彩に同列させて、キャンバスも目止めしなくなった。
点も無くなって、代わりに画面を走るエッジの効いたストロークが形体を作り上げたり、
途中で色面と解けあったり、その色面も絵具の厚みや塗り方が変化に富んでいる。
筆跡も多重に重なっていたりするのがわかり、以前の作品より時間の蓄積が感じられるような画面になった。
ただ、一見画風が変わっても、あの血なまぐさい雰囲気はもちろん健在していて、
さらにハッキリとしたストロークで画面を複雑に割ってるので、傷口スパッ!!と言いたくなるような暴力性も増した。
画面に生まれる空間は奥に行ったり手前に来たり、パカパカ入れ替わるような意識があるようだけど、
以前の作品のほうが、画面が孕む空間の深みはあった。あそこから空間の質を変えようと悶々としているような印象。

シュールレアリスムの自動表記の如く絵をスタートさせて空間を作っていくって言ってたな。
そういや抽象表現主義も自動表記からの流れを汲んでいるし、笠見作品の説明によく引き合いに出されているけど、
こんなに痛そうな抽象表現主義作品はあまりない笑。その差はおもしろい。

僕は気持ち悪いイヤーな感じのただの主観的な自己表現はとてもキライだけど、
笠見君のグロさは、絵画そのものの問題と本人の生理的性質がうまくブレンドされて、
このバランスの取り方に感心する。自分ではドロッとした表現できないし。。

ただ、あの表現をするにしては、サイズが100号はちと小さい気がした。
僕も人の事言えんけど、、、
学校卒業してからは、アトリエ問題や保管場所問題150号以上くらいの巨大サイズ作品を作るハードルが上がる。
実際周りの制作続けてる絵描きさんたちのタテヨコ共に2メートル級の新作はなかなか見ないので、
みんな問題に抱えてる部分だと思う。


あっちさんのここ数年の作品は、「あっちさんが見た世界の風景」が絵画として変換されている。
もっと前の作品は、部屋や花、意味を暗示させるモチーフと人を合わせたような、イメージ自体が作られた世界観だった。
あの頃の作品と今の作品には、変わらないジットリした空気を感じるけれど、あの別世界な感じが今は現実と合体してるみたいだ。
あっち・さんの「あっち」は、あっちの世界のあっち、かも!?(意味不明)

僕には世界があんな風には見えないのだけれど、小林作品を見てると、
描かれた風景を追体験してみて、
こんな風に現実を見てるのか!?こんな世界が見たいっていう願望ではなく、見てるのか。。
どこで見てるんだ?網膜?脳?五感?…ここはどこ!?と
こっちが次元の違う場所に立たされてるような気分になってくる。
少なくともあっちさんが描く世界の空の色は、青や水色とは思えない。
空の色が違う、同じで違う世界が二つ重なって同居してるような。

この人、映画「ゴーストワールド」のイーニドのように、だれにもわからない異世界に行っちゃう(行っちゃってる)んじゃないか??
でもこの麻キャンバスそのものに向かってベタベタ絵具を塗ってるのはあっちさん本人で間違いないから、大丈夫だ!!
と感じます。

ちなみにだいぶ昔に僕の中にあるボキャブラリーでなんとかヒネリ出した、少しだけ近いと思われるだろう感覚は、
スーパーファミコンソフトのゼルダの伝説神々のトライフォースの世界観だった笑
表と裏の世界があって、鏡のアイテムを使うとマップが微妙に違って変な敵がいて不思議な裏の世界に切り替わる。
そういう、感じ。
あの鏡のアイテムが、こっちとあっちの世界の境界線で入り口出口だ。
主人公のリンクは鏡アイテムを使ってガンガン世界を行き来する。

あの鏡のアイテムのような、「絵画」。
この「絵画」というところがニクらしさであって救い。
絵画だから鑑賞者は世界を行き来出来ないし。

あっちさんの修論テーマが寺山修司だったので、
後になってから、「田園に死す」を鑑賞してなるほどぉ、と思ったことを思い出した。

また、学生時代に、鈴木清順の「ツィゴイネルワイゼン」を教えてもらったことも思い出した。
こういうヤバい世界観にどっぷり浸かってるあっちさんはやっぱり確実に変態だと思った。笑
ずいぶん前なので内容もかなり曖昧にしか覚えていないが、とにかく危険なニオイが漂い、
対比されてる夢現実正常狂気生死世界を行ったり来たり、現実感が揺らぐような不思議な映画だった。

映画に比べると絵画は、描かれた世界、イメージ自体への没入観は弱いと思う。
なぜなら例えばそれは奥に入り込む空間の錯覚と同時に、
光を跳ね返す表面の物質感が強いからじゃないか。それに、時間の流れ方も違う。
さらに物質感の中に、画家がこのキャンバスの前に立ち、この距離で絵具を置いたという
絵画そのもののリアリティが含まれる。
近作であっちさんは、絵具のはじきのテクニックを取り入れたり、色数を増やしたり、タッチの残し方も塗り残しも大胆になってきている。
マテリアルは、鑑賞者の視点を絵画の表面に留めるし、マテリアルが作り出すイメージは、絵画空間に目を引き込む。
このバランスの取り方に凄みを感じ、不安も安心も貰えるんだ。

覗き見風な前景レイヤー構図の作り方は、あっちの世界に没入できないような仕掛けのようにも思える。入り口までしか、鑑賞者は入れない。
で、そのうち今度は前景と後景が、絵画的に混ざり合ってしまい、別の空間の複雑さを感じてくる。
あっちの世界(つーか描かれている絵画世界と言うべきか)の空間の深度と絵画空間の関係など、その辺もどう考えているのか気になる。

んで、500m美術館で新作を見る事ができたのだけど、地下鉄車内モチーフのほうは、近作の発展系というような画風だった。
もう一つの方が、少し違う雰囲気で、目に入るような場所に存在してるのが青白く発光した人だった。
この要素で、近作のような現実感から、ファンタジー(?)というかイメージの方に世界が少し離れたのかな?
その辺聞いとけばよかった。


そんなあっちお姉さんは今年ご結婚された。おめでとうございます!
僕らはなんとかお祝いのキモチを提示したいと、先日もっさいオトコ2人で大丸デパートをウロウロして
お祝いを探したのだった。
そんなわけで今回はただの強引企画ではなくお祝いを渡すというミッションもあり、
ようやくちょっぴり溜まりに溜まった敬意を形にできたが、逆にケーキ奢ってもらっちゃった笑

結局また甘えてばかりで膨大な借りをなかなか返せない!!
この際、借りだらけでももういいか、来年はこの強引企画回数を多めに…?

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