今回の研究会の議題が「リアリティ」とのお知らせがきて、ずいぶん広い議題ではあるけどいろんな切り口はありそうだなと
参加を楽しみにしていたのに、やることがありすぎて参加する余裕がない。

8月はホントにヤバくて4つくらいの企画が同時進行して制作もやらなきゃならないし、書類を書いたり、Skypeで会議をしたり、
作品梱包したり、頭が回ってない。
悲しいかな、初の不参加を伝え、家で絵の表面をヤスリヤスリすることに。

リアリティか。
ヤスリヤスリして出来上がってくる絵画空間が、今、目の前のリアリティだ!
なんつってサンボマスターとか流してみたりするが。

参加した場合に話そうとしてたことを羅列して自分で考えてみる。

ポップカルチャーに幼い頃からどっぷりハマっていることを否定できない僕らの世代、
だから大人になって美術表現をやる上で、
自分が無意識でその洗礼を受けてしまったポップカルチャー道に、テツガクを感じたいという欲求はとても理解できる。

ファミコンやビックリマンが自分に与えた影響は計り知れないし。
だからオタク文化論、宇野さんみたいなのが話題になって後輩の西田くんとかがよく語るのもわかる。
確かにこれは今の時代のリアリティを僕らが語る上では1つの源ではないか。

また1995年が、阪神大震災、オウム事件、windows95発売、という大きな事件が重なった年で、
2001年がアメリカ同時多発テロの年。
それらが発生したことで日常の認識が変わってしまったり、情報化社会の波にどっぷりつかるというのが、
これもリアリティの源の1つにも思える。

そういう話で共通理解が得られるのはおもしろいけれど、
絵を描いているとちょくちょく実感するのが、
結局やってることは昔から変わらず人間が支持体に向かって絵具やらなんやらをくっつけて、絵画空間を生み出すこと。

世の中から自分のアンテナが受信する内容と、くっつける素材の多様さが、時代によって大きく変わることで、
僕にとって一番のリアリティはやっぱり、
今生きてる時代に流されながら「自分なりに受信した内容」を「どうやって絵画表現に落とし込むか」だ。
んで、出来上がった絵画空間が、外のせかいに還元されるような、大げさに言えば真理のようなものを掴みたい。
ここにこそまず自分が考えるべき美術の問題がある気がするし、絵描きの話な気がするんだ。


3月以降、表現者への問いはいつまでも悶々としたまま。
沢山の津波の映像、原発の爆発の瞬間の映像はネットの小さいウィンドウでみてもショックがでかい。
何十メートルの津波がこちらに迫ってくる、そこにもし自分がいた場合の想像は現実感を超えている。
数万人が同時にそういう状況にあった。

実際に現地に赴き、現場を見た人は皆言葉を失っている。
そういう、リアリティを超えた現実がきてしまった後で、
今まで自分がやってきた表現は貧弱なものではなかったか。
震災が起こらなければそんな意識すら持てなかったのか。

僕は直接被害の無かった、なんとなく呑気な札幌でいつも通りに絵画に向かっているけれど、
ここ最近はなんだか絵画、というか美術に対して、ピリピリした見方になっちゃってるような思いがある。

絵画が世界の改革を起こす事はないし、すぐれたコミュニケーションツールでもない。
即効性もないし、スポーツや音楽のような大衆性もない。
もどかしいけれど、そういうもんだと思うし、
それでも美術は自分のために必要で、良い作品を作りたいと思っているのだけど。

良い作品自体、はっきりわかんないけど、良い作品を作るのはとても大変だ。
ああ大変だなあ…とずっしりしながらも、籠ってじっくり考える間もなく
ひたすら制作しなきゃならん現状。

で、フラッと美術展を見に行くと、
どうもやるせない作品がいっぱいあってキモチをげっそりさせる。

少し前に行った樽前artyでもいろいろモンモンとした。
札幌から少し離れた苫小牧での美術展で、
ギャラリーの方はスペース自体はおもしろいけど、
展示は美術展というよりは雑貨屋さんのようなノリで、
それはいいけれど、美術展を期待してここまで来た自分としてはうむむとなる。

小旅行とイベントを楽しみに来たんじゃなくてビジュツを求めて来たのにー…

また、別会場の小学校のロケーションは良いけれどもその分美術作品をそこで発表するとなると難しい空間だ。
場所のことを作品に取り入れるなら、かなりインスタレーションの能力が高い作家でなければ
作品がロケーションに負けちゃう。実際そうなってる作品が多かった。
結果、美術の必要性に疑問を感じてしまうような。
場所のことと関係のない作品で勝負するならここを引き受けるメリットよりリスクの方が高い。

一方別の日には、三越で有名作家の版画が並んでたりしてそれも別のモンモンを感じる。
大御所のマルチプルはまあ置いておき、いや草間さんの版画連発はキツいけど笑
若手?のタブローも並んでいて、それがキツかった。
一体この絵画群は何がしたいんじゃ…と見てると落ち込んできた。

札幌の街を歩けば安田侃の彫刻作品だらけ。屋外をつかった大規模な個展らしい。
どこの作品をみても、子供が楽しそうにぺたぺた触ったり乗っかったりしてる。
公共性を獲得できてる!
でも、スッキリはしない。自分の目指す美術はこういうことだっけか。

聞きたい批評もあまり聞こえてこない。
ああ、そうだ聞こえて来るのはtwitterのわかわかんねえリアリティのないノイズ!

ああ、そうだ福島出身で、札幌で作品制作をしている同世代の作家が2人いる。
実家が震災で大変だという話も聞いた。

で、考えさせられたのは3月以降に見た彼らの作品は、どちらもすばらしいものだったこと。
それは偶然かもしれないけれど、作品やせかいと向き合う態度が、とても純粋だったし、
感情を潜めた強さがあった。いややっぱ偶然ではないと思うんだよな。

向き合い方だ。作品や、せかいと向き合って、美術をどうやって自分なりに引き受けるか考えなければ。
ちゃんと向き合ってるつもりと意識してても、油断すると自分から遠ざかる。
そのうち表現のことを勘違いしていって、裸の王様のようになっていくんだ。
美術の端っこの端っこにボロボロとたまる垢みたいな存在、怖いな。
あー良い絵画を生み出したい。

制作には時間もお金も必要だ。
時間を確保しようとしたらお金が無くなり、
お金を確保しようとしたら時間が無くなる。
加えて良い作品を作るためには良いインプットも必要だ。
それにもまた時間とお金がかかる。
その辺のバランスをとってもシビアに作っていかないと、埋もれてしまうよ。
僕はできれば絵が売れて欲しいと明言しているけど、
絵が売れれば僅かながらでも、絵のための時間とお金が確保できる目的があるからだ。

もう学生気分なわけないし、若手と言うには年齢も微妙。
いつのまにかこんな年まで粘って美術を続けているんだ。
子供がいる同級生もいるのに、
腹くくって美術を選択したことに、誇りをもちたい。
だから呑気にダラダラやってるわけにはいかん。
悶々とする展示を見せられたら、時間を奪われた事に怒るし、
研究会だって、そうやってもがく作家達が時間作って集まってるんだから、
おもしろくない話の流れになったらそりゃ怒ります。


…て、制作の進行が一段落したところで丁度電話が。I先生に呼ばれる。近所で飲んでいた。
悶々を吹き飛ばすようなダンブルドア先生現象が発生して感謝!
でも質の違う悶々が現れるのでスッキリはしない!
そのまま円山に酔っぱらいを送るというヤボ用ができて、これは研究会の会場が呼んでいると判断!

研究会に飛び入りしてみたがもう終盤、議論は盛り上がったようで一段落した後だった。
そこに蛇足のように結局ただ上記のようなイライラ悶々をベラベラ晒しただけで終わったのだった。
なんにもなりゃあしない!
悶々は、絵画の中に落とし込むしかないか。