林道郎さんの文章は、2004年川村記念美術館のロバートライマン展のカタログで初めて意識的に読んだ。大学4年のとき。
展覧会にどうしても行けず、泣く泣くカタログだけ購入したのだった。
このカタログの出来が良くて、絵画それ自体をどのように存在させるか考えるようになったり、とても勉強になった。

何年か後、国立国際美術館のポルケ展で発売されてた小冊子がポルケと林さん達の対談「ジグマーポルケ 自作を語る」。
初めて拝める大作群と共に、ポルケの真面目なのかとぼけてるのか絶妙なトーク内容に感動したものだ。
ポルケについての日本語本は少なめなので貴重な冊子だと思う。

その後に「絵画は二度死ぬ、あるいは死なない」シリーズを読んだ。
シリーズ全部にはまだ目を通せていないのだけど、作家チョイスが好みで、
講義録なので読みやすいし作品分析のアプローチの仕方がリアルに伝わる内容だ。

その他「組立」の対談や、岡崎幹二郎さんの小作品集のテキストも林さんだった。

以上のように絵画の勉強してたら知らぬうちに何度も林さんの文章に触れてきていたんだよな。
そのため、目の前でしかも札幌で講演会が聞ける、しかもイベント主催側に作家として関われる、
というのはたまらないわけです。

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撮影:川村魚実

林さんは、フワッとスマートで穏やかで熱い印象。
トーク内容は書ききれないけど、
少し抜粋メモ。

・まず80年代西武の流れから絵の事を考え始めたのでフォーマリストではないという前提からの、
グリーンバーグの問題点、グリーンバーグが日本で一般化するタイミングの遅さの話、批評言語で語れないものに出会う期待感。
形式と内容の対立というのがニセだと思う。定義の不可能性。

・大阪の国立国際美術館で開かれた「絵画の庭」について。
現代の美術の展覧会にしては例外的に観客が6、7万入った。
9割具象だったが、(具象/抽象 というのはあまり有効なカテゴリわけではない)、
何点か気になるのもあったがほとんどぴんと来ない。 だからいまの日本の絵画のはやりものとはすごく距離がある。

・吉本隆明の話。
転向論で「関係の絶対性」ということを言った。一貫性は、まわりの社会情勢との関係で変わってしまう。
昭和が終わったというセンチメンタリズムではなく、いい批評はいつ読んでもいい。

・絵画の定義は、数学的な意味の定義は不可能。 社会の中で、変容しながら使われている語。
20世紀以降は、一般に流通している絵画概念を超えて絵画がつくられていることの繰り返し。
定義が更新されていくことの繰り返し。ただ彫刻に比べると、ある種の中心性は考えられるかもしれない。


・マチス『人生の喜び』やピカソ『アビニョンの娘たち』などは特異性を孕んだ、
沈黙の理論としての作品と言っていいかもしれない。
野球でいえば永久欠番みたいなもので、様式史のなかでも交換不可能な存在。歴史を支えるのはそこ。
いつもそこに戻らざるを得ない。
「他の現在」「他の時間」とむすびつくような、あらわな時間性をはらんでいるかもしれない。

スライド画像から、様々な時代の絵画に対するアプローチの説明。
視界を包む大きなインスタレーションに近いものではモネやロスコやムンクの共通性。
触知性の話ではフォートリエのアプローチ、岡崎幹二郎のサムホール作品。

・水平垂直、重力の話から70年代以降の話。

・説明し尽くしたらいい作品ではない。だから批評というのは最初から負けるようなもの。一言。

…批評家さんの言葉からこの一言が出てくることに笠見君も驚いていたな。故に信じられるなあ。

その後の質疑応答で僕は、
アメリカから帰国して、いわゆるJポップ文化と、同時に発生している日本現代美術はどう見えたか?
国立国際美術館の「絵画の庭」展で気になった作品はどんな感覚なのか?
日本の流行にただ回収されたくない思いがある。
Jポップ化、サブカル、そういうのを超えた絵画的な視点はどんなものか?
というようなごちゃごちゃしたことを聞いた。
回答は梁井朗さんの書いてくれた講義録を一部抜粋。

・Jポップという一般化するのは2000年ぐらいか。帰国後、宇多田ヒカルや椎名林檎がすごいと驚いた。
・Jという言い方には抵抗がある。カレン・キルムニックはある意味、Jポップ的。日本特有ではなくてグローバルに必然性に出てこざるを得ないだろうと思っている。
・近代で「いい場所」なんてない。みんな「遅れ」の感覚を持っていて、外国や、前の世代のものが進んで見える。
・ある種のコンプレックスの中で仕事を始めるのは、普通。誰だって育ってきたコンテキストを抱えてるわけで、すべてを見渡して作るしかない。

「メーンストリームに対してサブカルという戦略がある。サブカルは往々にしてメーンストリームのイメージを取り入れてスキャンダラスに操作していくと。
両方のコードにあてはまらないわけのわからないものが結晶することがあって。
たとえばセザンヌの水浴。アカデミズムでも通俗的ヌードでもない。なぜかああいうものが出てきちゃう。
バルト的に言うと第三の意味、領域というのがある。
破壊的なものを持ちえる、生み出せるのが美術の意味だと思う。 」

その後小室さんが、西武と絡めたポップについての質問を。ネオポップ、マイクロポップという呼称もひっかかると。

「70〜80年代、西武が日本の消費文化で果たした役割はすごく大きくて、
西武美術館だけじゃなくて、シードホールとか文化活動、CM、六本木WAVEなどを通じてリードしていた。
宮沢章夫が面白い本を書いています。ポップカルチャーに歴然たるヒエラルキーがあった。
オシャレな西武とオタクのあいだには格差があった。90年代以降、オタク的なものがメインストリームに出てきた、と。
僕はハイアートという言葉はあまり使わないけど、もうすっかり格差がなくなって、
美術はポピュラーカルチャーの中で細々とやってる。サブがサブじゃなくなった。
美術が持っている「第三の意味」的なポジションがますます重要になってるかもしれないと思う。
それと、ポピュラーカルチャーにはもちろん可能性がある。
大衆文化とかいうと、ひとくくりにすると、単一的に見えるけど、そんなことはなく。
自 分ではあまり垣根を設けずに、ひっかかったものについて考えるという姿勢。
社会学やってるわけじゃないので書くのはできないけれど。
松浦寿夫さんと創刊した雑誌に連載している「ポロックの余白に」では、
ゆるくて、ジャズについて書き始めています。
ゆるい気持ちは持ち続けたいと思っています。」

うーん、なんというか、励まされた。。。
こんな濃い内容の絵画トークは札幌じゃなかなか機会が無いのでは。
お客さんもたくさん来場されていて、良い形で終える事ができた。
その後のオープニング、林さんと打ち上げ2次会。
林さんに作品や展示の感想をいただく。

さらにその後笠見西田、CAIの端さんとうさぎちゃん、我らが山本先生と遅く迄飲む。