宇佐美圭司壁画処分問題。

http://www.utcoop.or.jp/news/news_detail_4946.html

東大から正式謝罪文がでたので、これでなんとなく収束してしまうんだろうか。
納得いかんよね。
仮にも東大の名がつく場所ですら、こんなことが起こるのか?信じられん。

僕にとって宇佐美さんって、作品自体より著作の方を先にを読んでいて、以来ずっと関心があった作家さんだった。
「絵画論 描くことへの復権」(1980年)は、国内で絵画を学ぶにあたって押さえておきたい一冊で、
プリベンションという考えを軸にして、自作及び絵画の分析をどう行うかという知的アプローチを追体験できたり、
デュシャン、ピカソ、マチス、クレーなどを軸に、現在において絵画を描くための場を思考することを体現した内容だった。一部抜粋してみると、
「抽象絵画が表現した悪魔とは、自由が均質へと移行してしまう「均質化の危機」であった。抽象絵画は、均質化の道を避けて通れず、均質化は形式へと循環するというアポリア。だからこそ私たちは循環系の世界にいる。「見えないもの」へのアプローチが、その見えないことによって自律的に語れず、「見えるもの」の側へ循環してしまう。 ー中略ー 循環系に至る表現をもう繰り返す必要はない。私たちは今、循環系を正面から受け止め、それと対抗するような表現の場を築かなければならぬだろう。」
といったシビアな指摘は、当時より絵画を選択した自分にとってグッと緊張感をもたらしてくれたものだった。
 

なかなか実物を見る機会に恵まれなかったんだけど、
僕は2年前の宇佐美さんの回顧展を見に、はるばる和歌山県立近代美術館まで足を運んだんだよな。
もちろん魅力的な展示だった。
そこでは作品のメインモチーフとなる、LIFE誌の実際の黒人暴動写真記事を見ることができたし、
特に90年代以降の高密度で巨大な作品群を何度も往復しながら鑑賞した。
当時の鑑賞メモ抜粋→「…人型を円形に閉じ込めることによる瞬間的かつ永続的な自己時間の現れ。これは暴動写真を見ることで自身の感情が動かされた出会いの鮮度が後々まで固定されたまま画面の中でリフレインしてるような感じ。それってまさに写真的要素、像。その外側に踊るように拡張していく自由な人体のドローイング線描はもっとなんというか自由があって、描いてる今その瞬間もたっぷり含みながら時間の幅が広い感じ。さらに絵画史っつーか人類史の時間軸に触れようとする試み。それらが、地底面に属さない楕円含む遠近法的パース、透明不透明、形態の重なりによる複雑な図と地の反転によって発生した絵画空間で混ざりあって、独特の画面のうねりのダイナミズムをもった多次元がこっちに向かってドバッと畳み掛けてくる。」
ちなみにこの時の展示作品は、カタログを見ると数点が和歌山近美の所蔵品で、残りはすべて個人蔵だったようだ。
そのせいか、80年代の作品展開が抜けていたのが気がかりだった。
 

実際、宇佐美作品を展示している美術館は現状多くないように思ってる。
何度も東京の大きな美術館に足を運んでいるが、収蔵はされてるものの、常設の常連作家という印象は未だ無いんだよな。だから和歌山まで行ったわけで。地方美術館ではどうなんだろう。セゾン現代美術館にたくさん収蔵されているようだけど、軽井沢まで足を運ばなきゃ見れないのも勿体無い話。
東大の対応は論外として、
宇佐美さんの価値付けってもっともっとちゃんとされるべきだよなあ、とも思う。
今回の問題も、新聞やテレビでも報道されるようになったきっかけは、Twitterで岡崎さんが提起したのが始まりで、もしこれが無かったら、いったいいつ表面化されたんだろうか。
今こういう形ではあるけども作家名が注目されたのだから、ドーンと、こんな魅力的な作家さんなんですよって証明することが、せめてモヤモヤを晴らすための正攻法な気もする。何よりもやっぱり、展示でそれをやってほしいなあ。
 

それにしても、自分も作品制作していろんな方に持っていただいている身なので、作品を来世まで守る大変な現実が身に染みる。
美術作品は、大きな他者評価をもって初めて、来世の文化財、お宝価値となる可能性が生まれるので、ただの商品ではない。しかし、いつその価値付けが起こるかはわからないし、そういう状況に恵まれなければ、大事にしてくれる方がいなくなった時点でただの産業廃棄物だ。
作家が亡くなって、自分で保管してた作品が残された家族によって処分されるケースも多いって聞く。それって相続税の対象になってしまうため止むを得ずって場合もあるようだ。
周りにも、作るひと、売るひと、買うひと、それぞれたくさんいるけれど、この問題を起点に、それぞれが、守るひとの属性も意識していけたらいいですね。