緊急事態宣言の影響で明日から5月頭まで、
JRタワーやら、大丸やら、地下街やら、ファクトリーやら、
市街地の主要エリアが軒並み閉まるらしい。
ずいぶん思い切った政策にちょっと驚き。

赤れんがテラスも同じくで、
武田浩志先輩の展示が急遽今日いっぱいで終了になってしまった。
ああ〜パーティもトークも無くなって会期も短縮、関わった身としても残念。
Twitterで北海道美術ネットの梁井さんに、テキストも圧巻とお褒めの言葉をいただいた。
感想の8割が「長かった」なので、救われたなあ笑
僕は18年前から近距離で見続けてきた、自称武田ウォッチャーだぜ。
武田さんの影響無しには、自分の作品の技法も無い。
ここでその分析の一端を披露できて、良い機会になったと思う。
サイトに書いたテキストは残っているので、ご覧ください。
https://www.terracekeikaku.com/exhibition


アトリエ制作。
途中、市街地シャットダウン前に駆け込みで車でルピシアに向かい、
ゆきちゃんがティーを買い漁るなど。


美術手帖2020年4月号(表現の自由とは何か?特集)に載ってた、

『絵画の約束ー非・媒体固有性、インデックス性、価値について』
イザベラ・グラーフ 文
大森俊克 訳

を読んだ。
メイン特集に隠れて目立ってないけど、

絵描きはこっちも読んどくべし。
絵画の固有性を、純粋性ではなくて記号論的インデックスから探るという2012年の論文。
8年前当時の絵画の位置付けの参考になる。

○内容ざっくりメモ
「準主体」への欲求に独自の方法で接近するのが絵画だと言っている。
生産物としての作品と、それが出現するときに居合わせないアーティストの人格。
この双方の関係をいっそう強固のものにするのが絵画的記号としてのインデックス性であって、
絵画とは、不在であるアーティストの主体性を浮き上がらせるという「暗示」の機能を伴って存続している。
ウォーホル、リヒター、ガイトンのような一見「脱主体」的なアプローチでも、この効果はある。
また、絵画は自らに関する固有の言論を生産する。
彫刻にも同じことが言えるが、
アルベルティによると、絵画の方がより難題に取り組むこととなる。
今でもそう見ることもできる。
絵画は主体であるアーティストとの物的=身体的つながりを暗示し、
次いでこのつながりから、あたかも実体が伏在しているかのような印象が生じる。
→準主体
絵画(及び芸術作品全般)の様式化に際し、
芸術を研究する者たちが、準主体にとどまることにより、
価値の生成プロセスが活性化される。
マルクスによる価値の定義→
その1
価値とは実態を持たず、つねにどこか別の場に存在している。
価値=「純粋に社会的な事象」
それ自体で高い価値を有する芸術作品は存在せず、
むしろ価値は果てしなく続く社会的、制度的、交流的なプロセスの内部で規定される。
その2
人間の労働力そのもの、人間の労働力全般の支出。
→→
絵画は、コレクターの「アーティストの「生」を感じさせる労働成果を手に入れ、
それにいくばくかでも接していたい」という欲求を満たそうとする。
絵画の痕跡、マチエールは、労働力(=制作)が私的かつ具体的であり続けるという、
想像上の場を存在させている。