やまもとのグレーゾーン

札幌の絵描き山本雄基のきまぐれ雑感と日常。

カテゴリ: 悶々

個展に必要な残り10点ほどの小さめな作品を仕上げる。

10点まとめてニス塗りするのが困難な環境だったため
DIYの能力が高い後輩・卓Gに
3日で箱椅子5個作れまっか(安値で)!!とムチャ振りしたら、
本当に3日で仕上げてくれた。
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う〜ん、できる漢だ。卓Gのような人に、
搬入とか制作補助とか展示とかうんぬんとか美術活動専門サポートの仕事を開業してもらったら
色んな人が助かるのではと仮説。札幌にはそういう人いなそうだもんね。

おかげで無事に小作品もノルマ達成。
それぞれ木枠に固定して梱包、まとめて送る。

小さい作品は送れるのだけど、問題は大きい作品だ。
旧作の100号大のサイズも一緒に送ろうと思い、いろいろ問い合わせたが無理。

ヤマトさんはこのサイズもともと厳しいし、
そもそもどんなにこちらが希望しても美術品扱い以外では取り扱ってもらえない。
少し前は佐川急便さんの飛脚フリーパッケージで
200cm級の作品もワレモノ扱いで安値で運んでもらえたんだけど、
いつの間にか運送可能サイズが小さくなって100号大は運べなくなってしまった。

他の運送会社も手当たり次第あたってみたが、
この時期は引っ越しシーズン、かつ増税前の駆け込み需要で
パンク状態とのこと。。。ガーン。

結局まあ旧作は無くても作品数は十分足りてるのでこの作品は無しにすることにした。
今回はこれでいいけど、
さあ今後どうしたらいいのやら。
大きい作品を輸送してる全国に散らばる個人画家さん達はどうしているのだろうか。
後輩・卓Gに4tトラックの免許を取ってもらってサポートを…
というわけにもいかないので
誰かオススメ輸送方法をこっそり教えて下さい。!!

NO NUKE2012を少しだけ見る。

YMOの演奏になんだか感動。
ONGAKUをこの企画に当てたのがなんだか希望があったので。
↓映像付きは消されてしまったが。。。


表現の力の底力なのかも。
9.11テロの時の坂本さんの非戦運動にはちょっと引いてたけど
今回は音楽に動かされたのだった。


ベルリンにいても、
ネットが繋がっていれば当然日本にいる時と同じ情報が
情報としてだけ入ってくる。


そうだ官邸前のデモに人がごっそり集まっているその光景に、

これが日本なのか、と心にくるものがあった。

同時に、なんとなく怖さが拭えぬ気もした。

大飯のデモ映像、こっちはまた雰囲気が違う。

Facebookなどで回って来た、

お巡りさんに傘をさしてるとか、子供を抱えている画像。

個人的には、これちょっと怖いなという画像だった。

ただこれもトリミングされた情報に過ぎないので
行って確かめないかぎり、ホントはどんな雰囲気なのかわからない。

 

原発、

子供の頃からシムシティってゲームやってりゃアブねえなってわかってるし

僕が持ってた地図帳の原発マークはトゲトゲしてて黒くて物々しさ全開だったし、

日本一周した時も原発地域付近は異様な感じだったし、

いつか本当に爆発すんじゃないか、爆発したら怖いなと思いながら、

それ以上はぼんやりしていたってのが実感として考えられるところだ。


が、いまさら反対と思う時には同時に、

違和感を感じる部分は、気付いていないことは、

見失ってる大事な事はないんだろうか。
 

そういう自分の立ち位置のバランスを
いちいち忘れずに気をつけていたいなあと…
せめて信じられる人の発言に耳を傾けて、同意したり
疑問を持ったりしつつ。
 

そんなトロトロ半端に考えてても意味ないだろうか。

声高に、「私はこういうイズムだ!」て言えないのは、

「この時代ハッキリ自分の意思を公開主張しなきゃ人間じゃねえだろ」

という脅迫的な感じが小さくてもどこかで発生してるような気がするからだ。
 

そんなに強いひとばかりでもない。

僕含め、悶々な人達が未だに一番多いんじゃないのかなあ。

勉強する余裕ないほど働いてる人もいるだろう。 

それにどんな選択しても何らかのリスクがあるし、
わからないことが多すぎるから

感情やハンパな知識だけで確かな判断は本当はできないのだと思う。

そしてそれを肩身が狭いと思って悶々と…。
自分なんかは特に守る子供もいないわけだし。

あと、いくらなんでももともとの首相の再稼働の説明が

あまりにも説明になっていなかったのはやはり大きな問題だよなあ。

あれではいくらなんでも巨大な反感を買うだろう。

タブーがあるのか?にしても、

ほんの少しくらいでも納得できるような言い方は無いもんなのか。
だれかプロの言葉作りの人くらい雇えば良いのに… 

再稼働のほんとうの理由が見えなさすぎて、
裏があるにしろないにしろ感情の逆撫でにしかならん。 

こうやってこっそり記しておいて、
2年後、5年後、10年後もその時点での時勢と照らし合わせながら
どう思っていたかを覚えておきたいものだ。


画家は何を表現するか。
ものすごく極端な話、
例えば日本が沈没して家族友達が消えてしまっても、
もう仕方ねえよっつって、後ろめたさを感じながら亡命して、
時代の傍観者のまま あいつは責任を捨てたとか言われながら
そんな中で自分の信じた絵を描き続けるのも、
1つの選択かもしれないよなあ。
亡命のハードル、絵を描くための場所や材料確保のハードル、
生活のハードルなどがどんどん襲ってくるわけで、
何があろうと描き続ける選択を死ぬまでし続ける。
きっとその中で色んな感情が沸き出してくるだろうし、
それはそれで人間の証として強さになる。
(それでヘボい作品描いてたら意味ないが)

ずっと前にマティスを勉強してた時に知った事。
WW1時に国に兵士志願したけど、すでに45歳だったし、
あなたは絵を描いて下さいって言われて、
そこから生み出した作品は傑作が多い。1914~1918年期。
WW2の時も、「夢」などの希望が感じられる作品を作っている。
奥さんと娘がレジスタンス活動で一時捕虜になったけど、
それでも制作を続けた。
エマージェンシーでも、絵描きとして生きる姿に感動したものだ。

そこまで強い心と能力を持つ事はできるのか。


今回の研究会の議題が「リアリティ」とのお知らせがきて、ずいぶん広い議題ではあるけどいろんな切り口はありそうだなと
参加を楽しみにしていたのに、やることがありすぎて参加する余裕がない。

8月はホントにヤバくて4つくらいの企画が同時進行して制作もやらなきゃならないし、書類を書いたり、Skypeで会議をしたり、
作品梱包したり、頭が回ってない。
悲しいかな、初の不参加を伝え、家で絵の表面をヤスリヤスリすることに。

リアリティか。
ヤスリヤスリして出来上がってくる絵画空間が、今、目の前のリアリティだ!
なんつってサンボマスターとか流してみたりするが。

参加した場合に話そうとしてたことを羅列して自分で考えてみる。

ポップカルチャーに幼い頃からどっぷりハマっていることを否定できない僕らの世代、
だから大人になって美術表現をやる上で、
自分が無意識でその洗礼を受けてしまったポップカルチャー道に、テツガクを感じたいという欲求はとても理解できる。

ファミコンやビックリマンが自分に与えた影響は計り知れないし。
だからオタク文化論、宇野さんみたいなのが話題になって後輩の西田くんとかがよく語るのもわかる。
確かにこれは今の時代のリアリティを僕らが語る上では1つの源ではないか。

また1995年が、阪神大震災、オウム事件、windows95発売、という大きな事件が重なった年で、
2001年がアメリカ同時多発テロの年。
それらが発生したことで日常の認識が変わってしまったり、情報化社会の波にどっぷりつかるというのが、
これもリアリティの源の1つにも思える。

そういう話で共通理解が得られるのはおもしろいけれど、
絵を描いているとちょくちょく実感するのが、
結局やってることは昔から変わらず人間が支持体に向かって絵具やらなんやらをくっつけて、絵画空間を生み出すこと。

世の中から自分のアンテナが受信する内容と、くっつける素材の多様さが、時代によって大きく変わることで、
僕にとって一番のリアリティはやっぱり、
今生きてる時代に流されながら「自分なりに受信した内容」を「どうやって絵画表現に落とし込むか」だ。
んで、出来上がった絵画空間が、外のせかいに還元されるような、大げさに言えば真理のようなものを掴みたい。
ここにこそまず自分が考えるべき美術の問題がある気がするし、絵描きの話な気がするんだ。


3月以降、表現者への問いはいつまでも悶々としたまま。
沢山の津波の映像、原発の爆発の瞬間の映像はネットの小さいウィンドウでみてもショックがでかい。
何十メートルの津波がこちらに迫ってくる、そこにもし自分がいた場合の想像は現実感を超えている。
数万人が同時にそういう状況にあった。

実際に現地に赴き、現場を見た人は皆言葉を失っている。
そういう、リアリティを超えた現実がきてしまった後で、
今まで自分がやってきた表現は貧弱なものではなかったか。
震災が起こらなければそんな意識すら持てなかったのか。

僕は直接被害の無かった、なんとなく呑気な札幌でいつも通りに絵画に向かっているけれど、
ここ最近はなんだか絵画、というか美術に対して、ピリピリした見方になっちゃってるような思いがある。

絵画が世界の改革を起こす事はないし、すぐれたコミュニケーションツールでもない。
即効性もないし、スポーツや音楽のような大衆性もない。
もどかしいけれど、そういうもんだと思うし、
それでも美術は自分のために必要で、良い作品を作りたいと思っているのだけど。

良い作品自体、はっきりわかんないけど、良い作品を作るのはとても大変だ。
ああ大変だなあ…とずっしりしながらも、籠ってじっくり考える間もなく
ひたすら制作しなきゃならん現状。

で、フラッと美術展を見に行くと、
どうもやるせない作品がいっぱいあってキモチをげっそりさせる。

少し前に行った樽前artyでもいろいろモンモンとした。
札幌から少し離れた苫小牧での美術展で、
ギャラリーの方はスペース自体はおもしろいけど、
展示は美術展というよりは雑貨屋さんのようなノリで、
それはいいけれど、美術展を期待してここまで来た自分としてはうむむとなる。

小旅行とイベントを楽しみに来たんじゃなくてビジュツを求めて来たのにー…

また、別会場の小学校のロケーションは良いけれどもその分美術作品をそこで発表するとなると難しい空間だ。
場所のことを作品に取り入れるなら、かなりインスタレーションの能力が高い作家でなければ
作品がロケーションに負けちゃう。実際そうなってる作品が多かった。
結果、美術の必要性に疑問を感じてしまうような。
場所のことと関係のない作品で勝負するならここを引き受けるメリットよりリスクの方が高い。

一方別の日には、三越で有名作家の版画が並んでたりしてそれも別のモンモンを感じる。
大御所のマルチプルはまあ置いておき、いや草間さんの版画連発はキツいけど笑
若手?のタブローも並んでいて、それがキツかった。
一体この絵画群は何がしたいんじゃ…と見てると落ち込んできた。

札幌の街を歩けば安田侃の彫刻作品だらけ。屋外をつかった大規模な個展らしい。
どこの作品をみても、子供が楽しそうにぺたぺた触ったり乗っかったりしてる。
公共性を獲得できてる!
でも、スッキリはしない。自分の目指す美術はこういうことだっけか。

聞きたい批評もあまり聞こえてこない。
ああ、そうだ聞こえて来るのはtwitterのわかわかんねえリアリティのないノイズ!

ああ、そうだ福島出身で、札幌で作品制作をしている同世代の作家が2人いる。
実家が震災で大変だという話も聞いた。

で、考えさせられたのは3月以降に見た彼らの作品は、どちらもすばらしいものだったこと。
それは偶然かもしれないけれど、作品やせかいと向き合う態度が、とても純粋だったし、
感情を潜めた強さがあった。いややっぱ偶然ではないと思うんだよな。

向き合い方だ。作品や、せかいと向き合って、美術をどうやって自分なりに引き受けるか考えなければ。
ちゃんと向き合ってるつもりと意識してても、油断すると自分から遠ざかる。
そのうち表現のことを勘違いしていって、裸の王様のようになっていくんだ。
美術の端っこの端っこにボロボロとたまる垢みたいな存在、怖いな。
あー良い絵画を生み出したい。

制作には時間もお金も必要だ。
時間を確保しようとしたらお金が無くなり、
お金を確保しようとしたら時間が無くなる。
加えて良い作品を作るためには良いインプットも必要だ。
それにもまた時間とお金がかかる。
その辺のバランスをとってもシビアに作っていかないと、埋もれてしまうよ。
僕はできれば絵が売れて欲しいと明言しているけど、
絵が売れれば僅かながらでも、絵のための時間とお金が確保できる目的があるからだ。

もう学生気分なわけないし、若手と言うには年齢も微妙。
いつのまにかこんな年まで粘って美術を続けているんだ。
子供がいる同級生もいるのに、
腹くくって美術を選択したことに、誇りをもちたい。
だから呑気にダラダラやってるわけにはいかん。
悶々とする展示を見せられたら、時間を奪われた事に怒るし、
研究会だって、そうやってもがく作家達が時間作って集まってるんだから、
おもしろくない話の流れになったらそりゃ怒ります。


…て、制作の進行が一段落したところで丁度電話が。I先生に呼ばれる。近所で飲んでいた。
悶々を吹き飛ばすようなダンブルドア先生現象が発生して感謝!
でも質の違う悶々が現れるのでスッキリはしない!
そのまま円山に酔っぱらいを送るというヤボ用ができて、これは研究会の会場が呼んでいると判断!

研究会に飛び入りしてみたがもう終盤、議論は盛り上がったようで一段落した後だった。
そこに蛇足のように結局ただ上記のようなイライラ悶々をベラベラ晒しただけで終わったのだった。
なんにもなりゃあしない!
悶々は、絵画の中に落とし込むしかないか。

中学と高校が一緒だった腐れ縁の友人から連絡、久々に話してたら最近お前は友人を大事にしていないと説教をされる(ちなみに去年もされた気がする)。

どうやら連休に地元に帰らずにバイトしてたり、たまに連絡しても個展のお知らせだけだったり、
地元に帰っても地元友達に連絡もせず気付いたら札幌に戻っているみたいな忙しい展開が続いていたので、信頼を失いつつあるらしい笑
男のわりに友情に対してネチッこいとはどうこっちゃ!?といささか違和感を抱きつつも、少し反省。

僕の友達に対する適当さは今に始まったことでもなく、日頃連絡もしないし、かといって、さよなら友よ!!というわけでもない。
ただいちいち会う約束をとったりするのがメンドクサイだけかも…っていうより何も考えていないという。それってダメか。
ツイッターとかミクシーとかで言葉を吐いてりゃとりあえず最低限のつながりはあるとか思って油断してしまうよな。

でもこんな風に人生テキトーにやってる自分に定期的に連絡をしてくれる友人達がいることは有り難いと思ってるんです。
そういうバランスで関係が成り立ってるんだったらいいんじゃないかとか思ったりと自分でそーゆーこと言ってはイケナイですよね、
ええ結局あなたたちには全力で甘えさせていただいておりますごめんなさい!!

とりわけその腐れ縁の友人Mは、現在中学校の英語教師をやってるのだが、中学時代から花がある男で、
笑いも取れるし空気も読めるしスポーツ万能、愛読書は矢沢永吉の「成り上がり」、自信家であるしなによりたいへんな努力家である。

とりあえずスポーツとか僕の苦手分野は置いといて、人として特異でなんかスゴみがあってユーモアがある存在を発見すると、
どうしても僕は、どこかでは負けたくないという謎の闘争心が発生するのだ。そしてそういう人のことが好きなのである。
ただし僕の方はコンプレックスの固まりのくせに何かこっそりやらかしたいみたいなヤツだったので、
結果芸術の道に迷い込んでしまったけれど!

お互いたまに状況を確認しながら自分の道でがんばってればそれであとは流れるままに…
とか言って友人の存在は忘れる、非情な人間なんでしょうか僕は。

美術やってたら結局美術仲間と主にツルむようになっていき、
その周辺での交遊がメインとなっていくのは自然の流れであって、
ちゃんと働いてる立派な社会人とかパパになった友人と会って、
芸術家はよくわからんけどスゴいみたいな反応をされちゃうのは結構切ないものでもある。

何が切ないかって、皆が働いてるのと同じようにやるべきことを選択してやってるだけっつーかむしろ、
制作以外ではだらしのないグダグダなゴミでごめんなさい人間でいつまでもオトナになれないし、
芸術やってるからギリギリ皮1枚で生きていられるレベルでそれこそ友達とかに連絡1つもできないような!
そのくせそういう自分が嫌いなわけでもないっていうメンドくせえ生き物なわけですよ。

もちろん芸術に携わってここまでなんとかやってきていることに誇りも持っているけれど、
しっかりやってる人の前だと、そういうなんとなくな違和感があるのだよ。ねえそんなもんでしょう。

この出生率は下がったジパングで、放射能がナンタラカンタラだしもうよくわからん!みたいな状況な中で、
しっかり働いて家庭を持って子供作って親として教育者になり明るい未来を創造するなんて真っ当な選択してる人に何を言えるのか。
そういう選択を本来みんながしなきゃ日本無くなるじゃないか!
(とか言ってるのは最近結婚したり子供が生まれたりしている友人が輝いているからです)

それに対して等価になり得るような芸術家(つーか社会人ていうの?)になるには少なくとも、
遊んで飲んでダラダラして、さらに例えばパチンコ行って合コン行ってキャバクラ行ってなんてやっていられないでしょう!
アホほど良い作品作るようにストイックに過ごして、やっと人間一歩手前まで行けるんだから。

つってグダグダ考えながら、今度飲み会の約束をした笑。
三十路のそれぞれの人生哲学や、昔話に花を咲かせてやろーじゃないか。




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KOHBUNDO ART CASE #05
山本雄基 個展『グレーゾーンが踊っている』

2011年5月21日(土)〜6月19日(日)
10:30〜18:30
毎週水曜定休
最終日は16:00で閉廊
初日/最終日は作家在廊

KOHBUNDO ART CASE
北海道帯広市西2条南9丁目6 六花亭3階
(当画廊へはエレベーターをお使いください)




 ある限定されたコミュニティに知らないうちに所属して、知らないうちにそのコミュニティでの価値観を持って、ある程度共有しながら生きていくのが、人としてフツーのことだ。

 例えば「芸術」というコミュニティ、「会社」というコミュニティ、「同級生」というコミュニティ、自分も知らぬ間に無所属ではいられずに、何らかの価値観におすわりしている。

 世の中には自分に全く関係のないコミュニティがある。自分が所属し得ないようなコミュニティがあって、そこでは全く自分の価値観が通じないような現象も起こる。

 そんな中で、価値観が通じないコミュ二ティが存在するということはとても難しい問題だ。うまく棲み分けができればいいのに、ヘタに相性の悪いコミュニティが接触した場合、憎しみや恨みにも繋がってしまうこともあるみたい。

 そういう時に生じる、モヤのようにつかみどころのない歪みの正体に僕はなんとなく興味をそそられてしまう。
 モヤをぱくっと食べて、自分自身がモヤのようにそのへんを漂っちゃうような感覚でいたいという願望が若干ながら存在する。

 モヤの中には、人が持つあらゆる感情の導火線が潜んでいて、モヤモヤ仙人が、ライターを持ってウロウロしている。そんなイメージ。

 何を言っているのか、伝わらないような気がするけど、こういう漠然としたことを考えるような機会があったということで、さらに漠然とこの文は続いてしまう。
 
 さて、そして改めて、僕はやっぱり本当はあんまり人のことが好きじゃないのかなあ…と考えてみたりしているけど、
 どうやら人のことというか、知らぬ間に負の感情に気持ちが囚われている状態やコミュニティの価値観に囚われている状態の人を感知したときに、どうしよもないやるせなさを感じてしまうのではないだろうか。

 その「やるせなさ」だ!これを、「やるせねえなーぁ」ってため息ついてる前に、キャッチして結晶化させたいのだ。
 どうしよもないこと、抗えないこと、は、人が人である以上(自分も含めて人って本当に欠陥だらけだし←それを否定するつもりはない)、必ず発生する事象なもんで、「それもしょうがねえやぁ、でもやるせねぇやぁ…」って思った中に、モヤが発生するんだ。

モヤを抽出したような要素を、作品の中になんとか込めたいと日頃からボワーッと思っている。
僕はただキレイで明るいユートピア傾向な作品を作るつもりは無くて、人のネガポジを含めてまずはそれを事実として腰を据えるところから始めたい。

 この漠然とした考えをウチに持ち帰って、壁にかけている自分の作品とにらめっこをしてみると、まだうまく形にできてない、モヤ純度を上げるためには足りない要素があるような気がしてならない。

人間なんてラララララ〜!

笠見君のうちで後輩数人を呼んでプチすき焼き会をした。

飲みながら楽しんだのだが、帰ってきて寝る前風呂に入りながら本日の自分を振り替える。
どうも、ぴたっとこう気持ちが収まらない。楽しかったんだけど、はて何か。

これはどうやら自分の性格における弱点に、不満足な状態らしい。

僕は興味関心があることにハマると、頭がそれいっぱいになり他のことをほぼ全く見なくなる。
例えば前述したように、笠見君の話をよくウンウン聞くのだが、熱中してくると、誰がいようとフタリだけのセカイになり話のスパイラルに落ちていく。 ハッと気付けばそれはオマエラだけでやれ!!という空気になりかねない。
自分らが興味深いと思うことを、外側に拡張させていかなければ、自分らしくないだろう!と反省。

あと、誰かの前で面白がられると調子に乗り始めて、軽いトランス状態に陥り、やはり他のことをほぼ全く考えられなくなる。話に盛り込める要素はとにかく盛り込みNGワードも連発するのだ笑
この悪いクセで過去何人を傷つけ、何人に叱られてきたのだ!!と反省。

こういう暴走特急状態は、

・まずはバランス
・芯がないのが芯
・上空1mに監視カメラ
・個の有効活用

…例えばそんな風な我が理想の立ち振舞いからかけ離れているので、悔い改めよ!!と心の叫びを両手に込めてシャゴシャゴと頭を洗う。

風呂上がりに居間に飾ってる自作を眺めながら、この絵の中には暴走の要素は込めてないなあ〜…意識して込めるべきかなあ、それとも無意識で含まれてんのかなあ、リアルとユートピアの狭間を人間的な感覚でもっとうまく作品に込められたら、物事の本質に少しは近づけるか!?

とかわけわかんねえ事考えてわけわからなくなったので寝ました。

帰ってきてお腹が減り、うちにある材料で作れるものが、唯一お好み焼だったので、嫌々作ってみたら なんともクソマズいお好み焼が誕生した!

料理が嫌いだ。まず包丁が苦手だ。それに食材を切るのも嫌だし、なんか色々な量を調節するのも面倒だ。洗い物も増える。
大学時代の先輩や後輩は男でもわりと料理とか好きな人が多くて、なんかちょっと疎外感!

料理に限らず、皆さん部屋もキレイで非常に魅力的なレイアウト、作家の部屋…て感じ。

比べて自分は汚い。こだわりのない、物だけやたら増殖し続ける部屋。

果たしてこんなことで良いのかといつも思いながらも改善する気もない。

絵画制作をそれなりに丁寧に面倒くさいことなのにやり続けていられるのは このような生活から考えると奇跡に近い。

要は生活することにあまり興味が無いらしい。ダメだ!!

札幌在住で同い年のいとこに三人目のお子様が生まれて、かつしばらく遠方に引っ越すとのことで、地元帯広から現れた我が妹と共にいとこ一家に会いに行った。そこは大家族なので、僕は若干サザエさんちに遊びに来たノリスケ状態。

生まれて1ヶ月のベイビーは小さすぎて奇跡。なんとまあかわいい。同い年なのにいとこはすっかり一家の母。自分との時間の過ごし方がいかに違うかと驚く。

我が妹もいつのまにやら大人であり、たまに会うと一瞬、誰なんだこいつは!と思うことがあるほどだ(笑)。精神年齢はもう明らかに僕が下。血族達よ、僕を置いて遠くに行ってしまったのね!

ということでいつの間にか無意識に精神年齢の近い、いとこの長男(小2)と暴れたりマリオをしたりキャッキャと遊ぶことになるのだ。しかし君もいつか、遠くに行くのか(泣)

こんなことを言い出すとオマエはピーターパン症候群かと思われそう、それはちょっとニュアンスが違う!
子供時代の感覚を忘れられないまま自動的に大人になった人という感じか?

そしておもしろかったのが、同い年いとこの弟にあたる21歳のいとこもいて、こいつは春から結構本気でお笑い芸人を目指して状況するらしい…マクドナルドのドナルド柄の変な帽子を堂々と被ってるあたり、自己顕示欲だけはイイ感じのようだ。応援した。アートとは違えど地獄の道なんだろな。

あーあ、こんなんですいません。と誰に向けるでもなく謝りたくなりますな。

さて明日からはアート漬けの東京栃木行きだー

2010年が はじまった ことしもよろしくおねがいします

とはいえ、もうすぐ1月もおわってしまう…

年初めから3ヶ月後に年度初めというのがまた来るので、気持ちの仕切りていうのがなんとなく難しい1~3月。

今年こそはこのブログをもう少し更新してみようと、試しに一発書いてみます。

「ものぐさ」

[名・形動]《古くは「ものくさ」》めんどうがること。また、その性質・人や、そのさま。無精。「―をする」「―な態度」

おまえはものぐさだ!と、こないだ仲の良い人に言われたので、早速yahoo辞書で「ものぐさ」の詳細を調べたら↑ということでした。漢字で書くと「物臭」だって笑 イヤな字だな〜自分にぴったり!!

そうです、ものぐさなんです。だからこうブログ一本更新しようと思い立っても、

ああどうせなら写真とかがあったほうがビジュアル的にいいよな…、
てことは写真を撮ってさらにパソコンにとりこまなきゃならないな…、
ああ出来事ひとつ書くにしても言葉選び次第でおもしろさが伝わりにくくなるよな…、
ああ何日か経って自分の残した文に凹んだりする可能性もあるのな…、
ぐだぐだ何日も書き続けたとして、気付いたら自分の性格の悪さと頭の悪さを露出するだけだったとかナンセンスよな…、
ああログインとかしなきゃならんのよな…、

とか考えるだけで…めんどくさ!!

って止めてます。しかもこんな想像するだけで、ぅん十分とかかかって時間ももったいない。だめですね。
 腹が減ってもご飯を用意するのが面倒なので、空腹な事実を意識的に何時間も忘れてみるということもあります。洗濯は明日で良い、部屋を片付けるのは来週のゴミの日の前日で良い、なんて調子です。
友達に連絡するのが面倒だという態度がバレて、正月早々地元の友達に説教されたりもしました笑。

 さてしかし、自分が作っている絵画作品は、作業工程がめんどくさいことばっかりです。不思議なことにそのような制作はだらだらと未だに続いています。
 おそらく、生きる事がメンドクサイという物臭根性が、現実逃避の手段として作品制作を選んだのではないか。

 現実逃避っちゃあ、やれインターネットだ、やれTVゲームだ、いろいろありますが、ネットやってるうちに一日が終わってたりしたら立ち直れません。現実逃避すると基本的に逃避後、負のスパイラルに陥る。(とはいえネットやゲームを否定してるわけじゃないよ)
 ところが作品制作ならば、謎の充実感と共に、明日への向上心すら芽生えるのだから、こんな現実逃避なかなかない!
 作品を良くする為にという前提で、生活するようになる。経験や情報すべてが作品の為の何らかの材料やスパイスになる。
作品制作してると気持ちの効率が、とても良いんです。なんとかして、作品を良い方向にもっていきたいというこれまた謎の目標があり、それがめんどくささを消してしまっている。
 そのうち現実逃避のはずだった行為が倒錯して逆に現実になってしまったような感じ。

これは一体なんなんでしょうね。
魔法か、アブナイ洗脳か。

そんな調子で最近は中型の黄色い絵と、小作品何点かを制作中。しかし冬は制作しづらいなあ。夏に個展やるからちょっとずつ準備せねば。

最近見た映画→THIS IS IT、アバター、かいじゅうたちのいるところ
最近読んでる本→日本辺境論
どれもいい影響です。

よし地味ながら今年は攻めるぞー

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