やまもとのグレーゾーン

札幌の絵描き山本雄基のきまぐれ雑感と日常。


[NEWS]

山本雄基展
ギャラリー門馬
2025年6月6日~6月29日
11-18時 火曜水曜休廊
https://www.g-monma.com/

山本雄基展
板室温泉大黒屋
2025年5月9日〜6月2日
10-17時

※巡回展ではなく、それぞれ独立した個展です!
ーーーーーーーーーーーーーーーーー

山本雄基
1981年帯広市生。2007年北海道教育大学大学院修了。現在札幌在住。
重層的な透明層の中に、色の円と色をくり抜く円を交錯させた作品を制作。階層をまたいだ色や形の相互関係や、対立的な物事のあいだを前提にした絵画空間を複雑に展開させる。
第30回ホルベインスカラシップ奨学生(2015)、第5回大黒屋現代アート公募展 大賞(2010)。 主な展覧会に、個展 Duality(N project,大阪/2024)、Under Current(宝龍美術館,上海/2022)、個展 PLACE OF HELLO(Mikiko Sato Gallery,ハンブルク/ 2020)、VOCA展2014(上野の森美術館,東京/2014)、道東アートファイル2013(帯広美術館,帯広/2013)など。


Website:
https://yamamotoyuki.com/

Instagram:
https://www.instagram.com/yukiyamamoto_studio/ 

X:

naebono art studio
http://www.naebono.com/

インタビュー記事:
golden アーティストインタビュー(2023)

web版美術手帖 DIALOGUE for ART 牧田愛×山本雄基(2023)

板室温泉大黒屋 山本雄基インタビュー(2015)
http://itamuro-daikokuya.blogspot.com/2015/11/blog-post_29.html


先日、東京都現代美術館で岡乾二郎 而今而後 ジコンジゴ、鑑賞してきた。
IMG_1423
IMG_1577

岡崎さんはなにせ造形と批評の両刀使いで、その批評力の印象に引っ張れがちだが、一旦その難解な感覚を外してみて、タッチというか絵具の動き方とか、どこをどうマスキングしてるのかとか、そういう痕跡を追っていくだけでも無数の発見がある。実際ただベタベタ塗ってる箇所なんてひとつもなくて、めちゃややこしい操作の跡しかない。タイトルや額の使い方もそうだけど、全てがねじれまくっていて素晴らしい。


大きな絵画作品に絞って少し書くと、
基本構造は解説にも書かれていたようにユニットの連続で作られていて、その最小単位は1つの連続したタッチ。数色以内の重ね塗りや削り取りが折り合いながら塊を形成して島のように独立したユニットが必ずある。この最小ユニットの中を眺めているだけでも読みきれない動きの蓄積があって面白い(ちなみに小さい作品は最小ユニットの別展開を徹底してる)。その塊がいくつか集まって、1つの綿布パネルに配置されている。ユニット同士の境界とかを観察すると、塗りの差異が際立って見える。
IMG_1672
IMG_1677
(↑例えばこういう緑色の島みたいなのがユニット。右上の別の緑とは分離されている。
この緑色のユニットでは、透明な緑のベタベタが塗られてから、おそらく乾く前に不透明の明るいエメラルドグリーンのベタベタが重ねれれている。よくみると、エメラルドグリーンの2つの塊の右側がどちらも、下の緑と一緒に引っ張られてるような跡があるから、そう予測できる。同時に、乾いてない2つの別の色を重ねると、もっと混ざってしまうようなものだが、そうはなってない。それは、上の絵の具を塗るときにあんまり何度も葛藤せずに、一発でズバッと乗せているからなのではないか。)

IMG_1676
IMG_1678
IMG_1684
IMG_1683
(↑一枚の作品の中のいろんなユニットを注視してみた。どう塗ってるのかを想像しながら絵具の動きを追っていくだけで、かなり面白い。)

ユニット群はパネルからはみ出さないように配置される(3階の新作群でははみ出しを開放)。そのパネルが数枚集まって1つの作品になっている。そういう入れ子構造が、今展示では反復回転対称性の強い小部屋のユニットにまで連動していた。最大ユニットはたぶん、1階と3階の関係。階をまたいでほぼ同じ構造になっているので、(例えばレリーフ部屋とT字絵画の並びや、4ユニットの絵画の小部屋の形式)空間込みで、入れ子の迷路で往来する気分になった。
IMG_1451
(1階)


IMG_1559
(3階。1階とともに、大きな絵画の部屋はこのように、十字に区切った4つの小部屋の中央と各部屋の端が通路代わりのブランクになっていて、隣にも対角線上にも移動できるしぐるぐる周り続けることもできる。多少変則的に塞がれてるところもあるが、この対称性の強い4部屋のユニットが2つ続く構造は同じ。)


IMG_1425
(1階)


IMG_1530
(3階。一階のレリーフ部屋の真上がこの部屋。どちらも同じ形のシリーズが等間隔で並ぶ。)



迷子感覚を持たせつつ、時系列でも作品の流れが追えるようになっている。初期作品は、マスキングの仕込みがわかりやすく、筆跡に見える部分は事前にマスキングで形が決められている箇所が多い。絵具の動きとマスキングの形がある程度同期しているので、パッと見ではただベタベタ塗ってるだけに見えるのかもしれない。でもよく見たら、形と塗りは別々の処理が行われているので、認識にズレが起こる。
IMG_1442
IMG_1446
IMG_1447
IMG_1448


それが一旦認知できると、一気に画面の情報量が増えて、笑えるほどいろんな操作で痕跡のかたちを操作しているのがわかってくる。これもひとつのイリュージョンと言える。


岡崎作品への批判として、イリュージョン=いわゆる絵画ならではの奥行きがなく、綿布に絵具が乗ってるだけ、みたいなのがたまにあるけれど、痕跡の絶妙な同期とズレを眺めていると、そもそも絵画におけるイリュージョンの定義自体を組み換えようとしているように思える。従来の絵画の時空間の問題を継承するなら、キュビズムよりラディカルな多次元表現はなかなか難しい(とはいえ良い絵を描くことはそれはそれで可能)。なので、違うやり方で絵画に宿る時空間の可能性を都度解釈しながら、次元のパラメータをいかにして増やすかの表現を初期からずっと提示していたのではないか。後半になるほど、この構造は複雑化していく。量子力学の一般認知が少し進んだ今だと、見る側も多次元の咀嚼をしやすくなっているのかも。

また、ハナからイメージを描くというより、 絵具の色と痕跡の動きと質感の重ね合わせが、後から結果的にイメージのようなものを生成させていく感じ。これが、いわゆる絵画っぽくないのかもしれない。しかし絵画の定義や本質などもはや機能しないと思うし、むしろ広い色面とか筆による塗りとかを積極的に避けていて、そういうところがむしろおもしろいわけで。


絵具の痕跡の形も、時代毎に違うのもよくわかる。塗り方も塗ってる道具もかなり変えてて、どんなかたちかは明確にはわからないが例えばスパチュラ、柔らかいシリコンスプーン、左官道具、みたいなオリジナルの道具も都度自作してると思う。岡崎作品のスタートは、かたがみの存在が重要な要素になっていたけど、塗る道具もひとつの型と言える。
IMG_1743
IMG_1665
IMG_1631
IMG_1479
IMG_1460
IMG_1456


2枚組で同じ構図の作品では、ある道具で塗られた色の形を型でかたどり、もう片方側では、その形を絵具ではなく何も塗っていない隙間の形に逆転させたりもしている。そんな型の応用だらけ。下塗りナシの綿布に、あのような薄い厚いが混在するように絵具を塗ると、形のキワにボソボソが残ったり、塗りの失敗とか葛藤とかが残るものだが、岡崎作品にはそれがかなり無い。無いのに、ユニット同士の調和が成り立ってるのが恐ろしいところ。位置決めの下描き跡も当然ないし、塗り直しの跡もない。これも型の手法に関係しているはず。だから、画面に精神的な重さが残らず(かなり注意深く残さないようにしているんだろう)、色とも相まって軽やかに見える。唐突に画面上に絵具が出現してそのままビタッと定着してる、こんな見せ方は実はやってみると難しいはずだ。
IMG_1462
IMG_1465
IMG_1466
IMG_1468
IMG_1469
IMG_1471
IMG_1473
IMG_1474
IMG_1475
IMG_1476


2枚組or3枚組で似た痕跡や同じ構図を共有するシリーズはまるで、ドラゴンボールのセル編で、過去を変えるたびに違う複数の未来ができる(1992年)、みたいな考え方。(参考までに、DB公式サイトにこんな掘り下げコンテンツがあるとは。https://dragon-ball-official.com/news/01_708.html)
IMG_1608
IMG_1612
FullSizeRender


組シリーズでは構造や塗りの複雑な見せ方も充実している一方、必ず2枚を見比べないとそこに気づけないという要素が、たぶん次の展開を考える上で、問題点のひとつにもなっていたんだろうと思った。後のゼロサムネイルと合体パネル作品がその問題解決の糸口になっている。ゼロの方の額縁の構造とデカ作品の合体パネルの構造はその役割に共通性があって、外の領域と不可逆的に結びついてしまう造形の不思議とか、あり得るかもしれない別の可能性への視座を、一枚でも提示できるようにアップデートされている。
IMG_1714
IMG_1763


80年代後半のケネスノーランドのDoorシリーズや、ロバートマンゴールドの分割パネル作品にも共鳴しているように見える。美術史的にはあまり表に出てきにくい彼らのこの辺りのアプローチ、おそらく岡崎さんも何らかの意識をされていることだろう。
FullSizeRender
(ケネスノーランドのDoorシリーズ)

IMG_0562
(ロバートマンゴールド作品。両作家も岡崎さんも、もう皆Paceの作家なんだよなあ。)

そんな中、たまに不思議な印象を与えてくる作品もあった。2019年の大作なんかは、絵具の痕跡も絵具が塗られてないブランク箇所の残り方もも今までにないギザギザが出てて、絵具もキャンバスにピタッと定着しておらず(もちろん綿布に絵具は定着しているのだが、周りの作品と比較すると、痕跡から受ける印象が違って、なんかこう浮いてるような感じがする。と個人的には思った)、2枚組で、絵と絵の距離もやたら離れていたし、小部屋ユニットからも独立した壁に配置されていた。
今までの筆跡を意図的に封印したためか、何か葛藤があったのか。
IMG_1618
FullSizeRender
作品の構造だけでは説明しづらい、こういう時代毎の画面揺れも、たぶん反復回転空間構造のおかげで比較できてみえやすかったかもしれない。


2階の使われ方も、従来の展示空間よりも開放的に、1階のレリーフ部屋を俯瞰しながら転換期の作品群を鑑賞できたり、エントランス側の空間とも繋がっていて、風通しが良かった。支持体の方が動く自動描画マシンと並列して、脳梗塞の後遺症で動かない体を自身の意思による描写行為でリハビリしていく過程を見せている。
IMG_1489
IMG_1490


病後の3階の新作群は、全体を通して振り切れたスケール、作る喜びに満ちていて、ごちゃごちゃ考える以前に、明るくて、いい。
塗りの思い切りも増し増しになってて、エスカレーターを登って見えてくる最初の1枚から雰囲気が違う。
絵具の塊を、ボトン!と寝せたパネルに落としてから行為を加えてるようなその丸いボリューム感に驚き、もはや分厚くてドーム状になっている部分もあった。それも透明色で作られているので、分厚さの程度から生まれてくるグラデーション色が形成されていて、色表現の幅が一気に拡大されていた。ハチミツの糸のような痕跡も登場しており、絵具の粘度の違いも感じる。
IMG_1491
IMG_1492
IMG_1493

加えて、画面外にむけて運動エネルギーを感じさせる太陽のプロミネンスみたいに伸びた楕円のような形状や、綿布パネルから大胆にはみ出した塊ユニットなども現れており、過去作では見られない痕跡の掛け算によって、やたら伸びやかな空間が現れてて、それが大変心地よくポジティブだった。
IMG_1629
IMG_1542
IMG_1537
IMG_1536
IMG_1541
IMG_1540
IMG_1761

プロミネンス的痕跡も、よく見たらその方向に勢いよく絵具をストロークさせているわけではなく、見かけとは違う順序やスピードで作られている。もうマスキングがどこに使われているかも判別できないが、こういう部分で巧みに応用されているのでは?いや、もう使ってないんじゃないか、という話もあり、推測しきれない。


その他新作群では、グニャグニャした痕跡とシカクシカクした痕跡がメインになっている。基本的にはグニャグニャの方が岡崎さん特有の形態の特徴を感じるが、そういうクセを散らすように痕跡を複数化させているんだろうか。特にT型シリーズでは意図的にその差異を見せていた。 後半の綿布パネルの組み方はタテヨコの合わせ技が多く、画面の形の時点で垂直並行の強調が付与されていて、さらにシンメトリーが象徴的。
IMG_1694
IMG_1663
IMG_1495
IMG_1512
IMG_1566


それにしても大作は初期から新作まで一貫して同じフォーマットの額装。画面と全く同じ大きさのほぼ同じ厚みの木製の額が裏に付いている。モンドリアンのような、台座とも言えるような額装形式を採用しているというのはある程度わかるけど、他の色や形に変えてみる可能性を見せずに、徹底して変えてないのははなぜなんだろう?
IMG_1872
(↑これは、MoMAにあるモンドリアンのブロードウェイブギウギの額。作品の裏に、ひとまわり大きくて平らで白い台座のような額をつけている。)


IMG_1724
IMG_1723
IMG_1674
IMG_1499
IMG_1461
IMG_1450
(岡崎さんの大作の額は、初期から後半の組パネルになってもピッタリ作品と一致した木製の裏額になってる。)

4時間かけても追いきれず、3階まで見終えるとつい1階に戻って見比べたくなる、、、とにかく希望に満ちて多幸感ある色に包まれながらみっちり考えられる、稀有な展示でした。


モダニズムのハードコアから、何度もいろんな別のやりかたで一貫したビジョンを提示してきた岡崎さんには僕もかなり助けられた立場で、 特に2000年代前半の無理解の波に屈せず、こんな展示が今実現しているとは、遠くから追ってきた身としても感慨深かった。


キリがないのでひとまず終わり。


ところで最後のユニークなかたちの象作品。象の話は、「絵画の素」p317に、「ダンボ」と「1941」に絡ませながらでてきてたので、彫刻化されることに唐突な違和感はなかった。
IMG_1593
IMG_1599
IMG_1596
IMG_1601
IMG_1603

 話めちゃズレるが僕はスピルバーグ作品に何度も感銘を受けてきたんだけど、岡崎さんって1941だけでなく著作で度々スピ作品について語っているんだよな。A.I.もマイノリティリポートも宇宙戦争も。全部頷けるのでもっと岡崎乾二郎によるスピルバーグ論、聞きまくりたい。

(前投稿の続き)


北の美大展(仮)をみてきた。
前投稿で触れた以上はなんか書いておくべきだよな、と思ったので、ざっくり感想を残します。
みなみしまさんのnote、卒制全部みる に掲載したバージョンが、編集が入って読みやすいので、こちらをメインで読んでいただければ十分です!
https://note.com/minamishima9090/n/na2b6704c0ecd?sub_rt=share_pb


以下が編集前の元ネタです。
もうちょっと、余計なことまで吐き出したままの状態。

本郷新記念札幌彫刻美術館館長の吉崎元章さんが自ら名前を出し、なぜ美術館で今展をやるのかの意図を提示し責任を表明されていた。吉崎さんの専門研究内容(札幌美術史を編むスペシャリスト)から考えれば、そうなることの理解はできる。公募枠の貸館事業に対して、館の意向やキュレーションサポートがどのように働き相互作用が生まれたのかは、これだけではわからないことも多かったが、今展をきっかけに発生している吉崎さんとの交流は、彼らに時代を超えた視座を与えているはずだ。
IMG_0625




IMG_0626

掲げたテーマ(要約すれば、「美大」のある場と比べて不利な現状においても、環境を前に進めるための機会を創出する)については、展示で深入りしているわけではなく、他校合同の尖っていたり閉塞感を打破したいメンバーが集まった学生選抜型グループ展の要素がメインだった。それでも自発的に他校合同でこの規模のグループ展をやること自体が札幌ではあまり多くない動向なので意義を感じるし、美術表現に真摯に向きあい、同時代の美術への関心も強め、という特徴が際立っていた。



まずその中でひとつ、展示テーマと作品を直接リンクさせている作品があった。武藤遥香さんの作品。(この作品は撮影禁止だったのでキャプションのみ。全作家のキャプションには、マスキングテープでの仮止め演出あり))IMG_0636

自身が普段制作の中心に捉えている、食とキャラクターを掛け合わせた絵画シリーズの小さな作品ひとつが台座に置かれ、その後ろの壁には、自身の学生生活の中で発生した、自作に関する大学教授や同級生との対話をベースにして一部脚色し匿名性を持たせたエピソードテキストと、自身が授業で書いた裸婦デッサンが並んでいた。

 書かれていた教授の指導内容は、端的に言えば表現の自由の否定であり、この現代においてなお、専門の美術教育現場でおぞましい指導が行われていることを認識できる内容だった。

 言われたことに悩みながら、徐々に教授の発言なんて間に受けなくても問題ないことを自覚し、本当に自分が描きたい作品を描くことの覚悟を表明したストーリー仕立てのインスタレーションだ。

 事実上、自身が受けた教育の告発にもなっている。他出展者と違って大学名を隠し、作品写真撮影を禁止にしていることからも、なるべく特定されたくない意図が漏れていた。でも、ここまで書くなら逆に堂々と見せててもよかったのではないか。

そしてこの作品が良い作品になっていたかと言われれば、体験の提示そのものが表現より前にでてきてる面もあり、またその体験は作者本人にとって今後もメインとなるテーマでもなさそうで、すでに乗り越えた問題でもあり、引っかかる部分はある。および、このような悪しき教育は一例であり、札幌全ての美術教育がこのレベルだとは思えない。悪印象に引っ張られすぎると、大学教育全般のみを仮想敵に設定しかねないので、そうではないはずだと注意もしつつ。小さな絵画作品は、イメージも筆致も繊細に作られており、このメインシリーズを単にもっと見たい。

 けれど、本来展示したいものを抑えてまで、(おそらく)今企画趣旨のために構想した作品形式にしてたのは武藤さんだけだった。企画を咀嚼し、体験なんでも作品に取り込もうとする姿勢を感じられたし、ゆえに象徴的な存在になっていた。


その他、特に注目した作家の作品をいくつかピックアップすると、
IMG_0628

IMG_0632
平井柊哉さん(札幌大谷大学)は、札幌地下鉄の改札の写真と、札幌の地下鉄ホームにありそうな看板を、行先表示を消した上で再現し、縦に置き、最終電車が発車した後の「終了」の文字が点滅している作品。

聞いた話では彼の大学の卒展では、同じ作品をもっと広い空間の天井から吊るし、終了のブザーが繰り返しなっていたらしい。今回の作品は他作家と狭めの部屋を共有したためかスケールダウンした別バージョンとはいえ、しっかりした看板の造りから現れてくる都市の無慈悲と感情のミックスの巧さを感じた。

平井さんは同じテーマでもう一点大きめのシェイプトキャンバスの作品を出していたのだが、こちらは意図に対して造形の粗さが目立ったものの、意向の違った2作品を同時に展開する創作欲を強く感じた。

IMG_0635


IMG_0633
森山美桜さん(札幌大谷大学)は、老いて篭っていく母と子のコミュニケーションを表出させたインスタレーション。

近年美術で扱われることが増えた福祉、ケアの問題にも関わるテーマ設定だ。部屋を訪ねてきた娘がチャイムを鳴らし、母に呼びかけるが、部屋の母からの応答はない。ドアの覗き穴から、娘の姿が見える。すりガラスの窓の向こうにも。そして娘は帰っていく。

ドアと窓は別作品のようだが、娘の移動が両作品でリンクしていた。部屋に閉じこもっているはずの母の視点を鑑賞者は共有することができ、その部屋の側が会場空間に開かれているので、実際に閉じこもって見えるのは外でチャイムをならす娘の方に感じられるという倒錯の表現が面白い。

ドアと窓の箱っぽい物体感が強調されすぎていたり(台座がそれをさらに強調する)、作品が壁から離れていて中の機械類が見えてしまっていたり、演出の工夫はまだまだできそうだった。普段は絵画メインで制作しているようで、今回は特定のメディアから離れた表現の実験でもあるのだろう。

IMG_0631

IMG_0630
Rico Iwai×高須悠理さん(札幌市立大学)のサウンドインスタレーション。
コンセプトシート通り、特殊なスピーカーで可聴域外の水の音を水面に向け、振動による波を発生させ、その波にさらに光を当て壁に投射することで映像化させる作品。

ここでもまた部屋の制限がどうしてもあるせいなのか、水の波紋の見せ方をより美しく丁寧にすることで見応えが増幅しそうな内容だった。札幌でこのような傾向の作品が増えているように感じるのは、初回にカールステン・ニコライの作品があった札幌国際芸術祭からの影響も少なくなさそうだ。

いずれも設定した意図や欲求は明確で、現代社会の問題や、既存の芸術とのつながりを意識した上で、あらゆるメディアの可能性を試しながら、表現に挑戦していたように思う。全部は紹介できないが、皆そういうムードを共有していた。
(公式インスタアカウントがあるので、そのうち会場風景はここでみれるようになるのではないか。
https://www.instagram.com/nau.info?igsh=MTRscWltMmtsbXNn

展示全体の印象を引っ張っていたこれら個々作家の表現に良い感触をもちつつも、 やはり打ち出したテーマを掘り下げた展開を、もっと見てみたかったのも事実だ。
特に、仮想敵として設定しているであろう「美大」への視座や、「北海道の美術教育やアーティスト養成について見つめる場(クラファンの文言より抜粋)」という点については、ほぼ言及されていなかった。

例えば、展示全体を国内「美大」卒制の総本山的展示である五美大展と比べたら、何が浮かび上がってくるのだろうか。僕自身、五美大展を実見していないのでハッキリとは比較できないが、幾人かの知り合い美大生の活動や作品を比較対象にすると、まだその経験値差が感じられることも否めない。

また、事前の話題の拡がり方に比べ、展示そのものはまだ「開いたけど狭い」印象が残った。それは都市成分と地方成分が混ざり合い、ここでのみ完結するコミュニティが作れてしまう札幌で陥りがちな傾向なので、今後なんとか回避してほしい部分だ。近場の問題を、近場の人たちで共有して、近場の人たちで鑑賞しているのみでは、挨拶文の中でも想定していたような、人材・人口の流出先である「美大」への意識は、宙吊りにされたままだ。

実際、メンバー全員による五美大選抜展の現地調査は行ったのだろうか。本来なら卒業の1,2年前に実見しておくのがベストだろう。

想定する「美大」で何がどう作られているかを実見することで、同じ作り手同じ世代の自分たちとの差異が認識できるはずだ。圧倒的な実力差に挫折嫉妬するかもしれないし、同じ道具でもこんな使い方があるのかとか、似たテーマでもこんな表現方法があるのかと発見があるかもしれない。逆に、すごいコンプレックス感じていたけど、見てみたらそんな大差無かった、なんて気づきができるかもしれない。

すでにみんなで見に行っているのかもしれないが、その反映が展示からも直接感じることができれば、企画テーマにさらなる踏み込みができたのではないか。

五美大展鑑賞に限らず、同世代の五美大でも金沢でも京都でも名古屋でも海外でもいいから、内に限らない交流の機会を増やすことでわかることもあるだろう。展示イベントでそういう枠を作っても良かったと思う。

「北の美大展(仮)」を立ち上げる切実さは「美大」周りの人たちには意識しづらい。そもそもそんなことを普段意識する必要すらない中で、彼らが外からどのように羨望の眼差しで見られているかを知ることに、意味はある。
美大生にとっても「美大」を取り囲む権威や文脈に振り回される良し悪しもあるだろうし、違う視点を獲得できる有効性はどこも変わらないはずだ。
僕の思う札幌のいいところのひとつは、都会と地方の狭間、オリジナルとコピーの狭間で、自動的な俯瞰目線とプラグマティックな態度で、国内の状況を咀嚼できるところだ。そういう視点が「美大生」を批評的に捉え得る。


「北海道の美術教育やアーティスト養成について見つめる場」についても触れれば、
高校から大学に上がり、大抵は美術のことなどわからないままで、仮に最悪のケースとして先に取り上げた武藤さんの事例のような教育のみが与えられてしまったとしたら、手探りで自己流の方法論すら認められず、自分の信念を乗せた表現方法や主張に辿り着くための道筋を見出すのは困難だ。

 それとは別に、特に現代領域の、絵画、彫刻、インスタレーション領域の学習のためには、実物をたくさんみる体験がどうしても必要になってくるし、皆で言及・共有しやすく、優れているとされる実物作品は、遠く飛行機に乗った先にある。ものベースのファインアートを学ぶ上で、物理的な距離のハードルは構造問題でもある。 北海道にだって、いいものたくさんあるでしょう!?という意見もあるかもしれないが、それを内から気づくには、一度でも外目線を自身に課すことでようやく成り立ったりするものだ。

飛躍的に効率や認識や経験値を上げるためのジャンプの機会は、「美大」に比べて地方にいくほど限られる。どんな環境だろうと、自分自身でそこを超えていける能力や勘や運を持つ人もいるだろうが、そんなに多くはない。

 「北の美大展(仮)」メンバーが受けてきた美術教育は、そんなジャンプの機会を与えてくれる場としては機能していなかったのだろうか?展示されていた作品からは、上世代からの影響を感じるものもあったが、それが教育機関由来なのか判別は難しい。

 ただ確かに札幌周辺の大学主導で、開かれた美術の場を創出しようとする動きは、以前から大きくは感じない。もともと、札幌の土地柄として他者(他校)に関わっていく「おせっかい心」が全体的に弱いようにも思う。
一方で、SNS等では目立たなくても水面下で、機会の創出を意識して教育を行っている教授陣は少なからずいるだろう。僕自身がここで受けた教育でも体感してきた。

しかし結局展示内容からは、武藤さんの作品以外に実際の教育現場の多様な事例を知ることはできなかった。
教員にだって、財政難や人口減少の影響や、国の方針など、抗えない縛りと向き合いながら工夫を凝らさなければならない実状があるはずだが、怒るにしろ弁明するにしろ表に出てくる教員も今のところ見かけないので、よくわからない、というのが正直なところだ。その辺りが展示で可視化されていれば、問題がより明確になっただろう。

展覧会クレジットの協力欄には、多くの教育機関の名前が並んでいるし、教員の多くは「美大」を卒業している。後援には札幌市・教育委員会も入っている。まとめて関係者を引っ張り出して、対話の機会を作っても良かったのではないか。


とはいえ。
 それこそ学生のうちから、上記のようなことをあらかじめ意識し、実行するのはかなり難しいことも承知している。そもそも彼らは、多感な大学初年度あたりにコロナ禍にぶつかり、縦横の関係が断絶された世代であることも考慮すべきだろう。
なので、当然だが僕のすべての放言は、メンバーの今後の活動も見据えた上でのただの感想に過ぎない、と付け加えておく。

 ジャンプの機会を与えてくれる仲間や場に出会いやすくする場や仕組みが増えるほど、あらゆる可能性もまた開かれる。「美大」との格差の意識を縮められるような仕組み、あるいは差なんて関係なく独自の体系を作りどこよりも面白いことが生まれるような仕組みを、大学内外でも、自分たちでも実装しようとするならば、そこには希望がある。
 今展もすでに、その最初のきっかけの場として機能している。 


僕も同じ札幌、道教大修了生なので彼らの先輩にあたるのだが、学生時代はジャンプの機会を与えてくれる先生、先輩、組織に比較的恵まれていたと思う。アメリカと行き来しながらフルタイムアーティストとして活動してるアーティストの大井敏恭さんの大学の集中講義でチュートリアルを受けたりスタジオビジットに行けたり。道外の同世代の学生作家(当時造形大の先生だったアーティストのO JUNさんが札幌のFree Space PRAHAに持ち込んだ学生バトル展企画「アウトレンジ」に参加し、学生時代の梅津庸一さんや大田黒衣美さんとも一緒に展示できたりしてた。あれは衝撃的な経験だった)との交流もあった。学生として最も参照できるかつ情報が少ない例としては、「あけぼの美術企画」も挙げられる。卒業すぐの若い作家や学芸員が共に展示・企画・イベントを行い、若いアーティストの展示に限らず、野口里佳さんのアーティストトーク、高木正勝さんのライブイベントや小山登美夫さんのレクチャーまで行っていたのが印象に残っている。

強烈なアーティストの姿や生きざまを直接みることで、人はここまでの境地にいけるのか、、みたいなこともわかる。ネット上では掴みきれないことだ。


前記事でも書いたように、挙げればキリがないほど、現在に至るまで、札幌では新たな草の根芸術運動が現れては、続いたり無くなったりが繰り返されている。
しかし、多くの事例があるにも関わらず、具体的にどうやって企画を立ち上げ、メンバーを集め、予算を獲得し、ゲストを呼び、観客を集め、世間に理解を求め、政治に訴えかけ、その質を見極めてきたのか。そういったノウハウの共有、引き継ぎ意識は、まだまだ少ないと思う。また、失敗や反省の検証事例も少ない。

それらを怠ってきたのは、まさしく僕たち諸先輩方の責任が問われるところだと思う。


だから結局また繰り返しになるが、地方問題を前進させる方法論を皆で提示していくのがいいのだと思う。今回の展示を実現させた彼らだけでなく、この地で活動する皆の課題なのだ。

みんな仲良く、とまでは思わないが、あまりに不要な悪態と、それに便乗する若者という不毛さを、それなりに見てきた。派閥を飛び越えて活動してきた方々もたくさんいるのだろうが、そこに批評や質を保った関係が伴って続くのがベターだと思う。それぞれの立場は主張の違いはいいとしても、相手の現実的状況や考えを聞きもせずに、妄想レベルで攻撃批判するということはやめていきたい。そういう人に限ってファクトが大事とか言ったりもする。その自覚は難しい。自戒を込めて、せめて一旦、丁寧に状況把握した上で行動しようと思う。

最近はまさに、同時多発的に徐々にそういう動きがみられるし、良い感じの流れを感じるような気もしている。

そういう流れのエッジが「北の美大展(仮)」のメンバーなのだとすれば、彼らに伝えられることも、教わることも、たくさんあるのではないか。

卒業後の作家活動は、人によってはさらに長いものになる。今回集まったメンバーは今後もずっと問題意識を共有し、切磋琢磨が続く同士になっていくかもしれない。事実、僕も彼らと同じ頃に出会った地元作家との関係は今も続いている。そう考えれば、時間をかけて同じテーマをいくらでもアップデートしていける可能性を感じた。

途中からは僕自身にも向けた課題と主張になってしまったが、それを吐露させてくれた強いきっかけは、この「北の美大展(仮)」の一連の流れと、誰よりも愚直で詳細にレスポンスして問いをなげかけて拡散に一役買った美術家の佐藤拓実さんだ。若手作家が熱い地方、思わず中年作家も熱くなる。

美術家の佐藤拓実くんの、札幌の美大・卒制展・地方での活動に関するブログを読んだ。

卒業制作展の時期になると毎年思い出すこと こたつ島ブログ
https://kotatusima.hatenablog.com/entry/2025/02/08/卒業制作展の時期になると毎年思い出すこと


渾身の論にまず敬意。
前提の美大あれこれ地方むずむず、および合同学生展の有意義さ、おおむね同意です。


追記すれば、後ろめたさも嫉妬もなく、
・クラファンで他者からお金を集める目的が、自己表現の集合展開催のためになっていること。
・市立美術館を会場に設定していること。(五美大展会場の国立新美はアートセンター)
この2点は、自己顕示に権威構造を利用する意図を内包してて(それでも良いと思う)、ならば発信と同時に作品の質が問われる・問うていくことはむしろ必要なのでは?と僕は思いました。これも、マッチョさの無理強いかつ現実から目を逸らす方便、を表明しているに過ぎないのかな。


またそのアプローチは、地元作家主導ベースで言えば70年代-90年代くらいの世代がやっていたグループ展での発信スタイルに重なってみえます。
その次世代、僕も学生の頃からよく行ってたPRAHAやテンポラリースペースやCAIやS-AIRなど色々な民間組織が批評的におそらく今の彼らと同時期くらいに始めたことは、作品発表だけが必ずしもメインではなく、より広めに設定した芸術のオルタナティブ場で、内外の人や知識の出入りを増やすことでインフラを作り、そこでの教育的機能によって質の意識を地元から変容させる役割を引き受けてました。いずれも、常にどうにもならん地域状況に対するヤケクソ感もあったんじゃないか。ここでのああいう実践、めちゃ凄いことだと思います。


さらに次世代の我々が意識すべきは、
全部じゃないと思うがそれらの場が現在からみればハラスメントの温床になりがちだったこと(いまはもうないあそことかあそことかヤバかったと聞く)や、派閥意識強めで下世代にも影響を与えていたこと、そういう問題も含めて、場を継続する中で自分らの仕組みの中に必ず生まれてしまう逃れられない権威の構造を自覚して咀嚼すること。
そして良い部分を引き継いで自分たちの活動する場=札幌の美術環境を自分たちで良くしていくこと。お金確保すること。(ほんと金ない。)


その頃から現在まで継続する組織だって今もその辺ずっと試され続けているだろうし、
後にも定期的に新しい動きが起こり続き、そういう流れのエッジのひとつが今回の展示だと思うし、
色々踏まえて今、naebono art studioの運営に関わってる自分がまさに、自身に対しては作品の質重視(それもマッチョ?マッチョて言葉の意味、最近インフレしすぎじゃない?)で、スタジオコミュニティに関しては上記の反省を反映させながら場づくりをやってるつもりで、向いてないながら試行錯誤の繰り返しです。


それぞれやれることはやってきて今があるけど、全体問題の更新は牛歩。
そこ改善するには、小さいコミュニティが時に敵対意識まで持ちながら各々勝手にやってるような状況から、もう少しだけでも世代やイデオロギーを超えて、アーティストだけでなく教育機関も美術館も支援組織も企画者もギャラリーも書き手もオルタナも学生も行政も、この場をより良くしていきたいと思う皆で都度問題点の共有や引き継ぎを意識したり対話しようと試みること。札幌が特になのか他地方も同じなのかはわからないけど、僕含めみんなそこ不得意な気がします。
でも最近は、同時多発的に徐々にそういう動きがみられるし、良い感じの流れがきてるような気もします。


どの世代も同じ壁にぶつかり、それを遠くの人らがフォークロア的まなざしで消費しようとしてきたり、いちいちムカムカもがきながら、この地に根を張ることを選択して、場を繋いでいくことは、ここでやるからこその創造行為だと受け止めたい。


ということで、学生合同卒展の枠組み自体は今後も続いて欲しいし、「北の美大展(仮)」見に行ってみようと思います。


そういえば佐藤くんについては「塔を下から組む」展の時にも書いた気がするが、
彼は純粋に美術表現について向き合っているし、発表したものに対して何度も、何でもいいから感想が欲しい!みたいな表明してるので、
ああ、そうだよな、、、地方での反応の少なさもまた辛いよな、、、と思って、
ついレスポンスしてしまうのである。

ーーーーー
※追記
(Facebookで同文を載せたところ、クラファンと美術館会場への視点に対して質問があったのでその回答も追記する。)

これもまあ主観に過ぎないけれど、
僕は、美術館にはちゃんと権威であって欲しい。つまり、できうる限り本気の常設と企画で良い作品が鑑賞できて思考を揺さぶられる場であって欲しい。そのぶん、何を見せるかはシビアに選別して欲しい。
そういう美術館だから好きだし憧れもあります。抗い甲斐だってあるはず。


となると、美術館が学生展を開催することにそれなりの抵抗感は生まれます。
ひとつ後知りの事実があって、今回の企画は本郷の貸館利用公募に応募したと聞きました。であれば、企画応募に何も違和感はない。そもそも何で貸館枠の仕組みが採用されてるのかはよくわからんのでそこは何も言えず、美術館のジャッジを問える部分でもあります。
とはいえ、やはり美術館展である以上なるべく質の高いものを求めるのは、僕としては当然です。入場料も払わされるし。市民ギャラリーやSCARTSコートを借りて無料でやる有志展示とは前提が異なります。
(ちなみに国立新美術館は英記でTHE NATIONAL ART CENTER, TOKYO、サイトでも自らを美術館ではなくアートセンターと定義してます。それは団体公募展の貸館業務がメインでコレクションを持っておらず、美術博物館の定義と異なるからだと思います。本郷は美術館なので、公募でも出す側選ぶ側のシビアさはあってほしい。)


またクラファン×SNSの掛け合わせ構造って、時に危うさも感じます。そこに「美大がない」という誤読を多発させるキラーワードを投下するって、たとえ修正しててもけっこう時間経ってからのようだし、かなりマズかったと思うんです。お金で応援する人の気持ちをある意味騙してることにもなるから。ここは意図せず発生してしまった権威(悲惨な自分たちの過演出)の悪用と感じてます。ただ修正が入ったことは、自分たちで気づいたのか誰かが指摘したのかわかんないけど、反省の表明だと思うので、学生ゆえの失敗と思えばそれで良いとも思います。だから作品だけでなくその企画文言の質を問うていく必要もあると思います。


で、地方の現実的デメリットは、前述したように学生どころか、40代50代と時を経ても、何ならより色濃くまとわりつくものでしょう。全世代同じ問題を抱えてて、今回の学生の皆さんもここにいる限りこれからずーっと向き合わなければならない。てことは、実状をアピールしたことに一定の意義はあれど、企画展のテーマとしては、特別なものではない。となると、実質の企画内容自体は、尖っている学生仲間の有志作品展、なのでは。


そうなると、まずは作品の質くらい問われないと、美術館と支援者と表現者みんなで、批評が無い無いと言いながら批評を受ける準備はできてない地域のユルさを再生産するだけになっちゃうのでは?と。

(見てきた感想に続く)

自分にとっての芸術の原理とは。

自分が心奪われてきた芸術体験と、いま一度向き合って潜らねば、とか今年は考えていた気がする。

子どもがいま3歳半。この3年で、ひとがどのように世界を受け入れていくのかを家族として観察した。僕の最初期の記憶が2.3歳頃からなので、それ以前のことを子を通してそれなりに理解した。

3歳までは、毎日の生活と芸術体験との大きな違いはなかった(というか世界を知覚することが全時間の全て)と思うが、物凄い観察能力と様々な物事に出会った際の反応差、食べることと遊ぶことの嗜好の中に、芸術体験の原液のような感触はある気がする。

言葉の習得には関係するんだろうか。言葉が世界を規定していく。言葉が、もの、こと、人のこころ、とつながっていく。理解のスピードと習得のパターンの多様さにはもうついていけない。線や色も理解して、それらもすでに言葉とつながっている。

言葉の基本が整った最近になって、かっこいいとかかわいいとかおもしろいとか、そういう反応を記号的かもしれないが使えるようになってきた。

驚いたのが、何かの拍子でダリの記憶の固執を見せたら、息子がこんな反応をした。

「このとけいどうなってんの?木にぶらさがってるね なんで?ここにもなんかぶらさがってるね。テーブルにもあるね。青いこおりの色みたいだね。あまいのかなあ?ありさんきてるし。ひとの手(絵の真ん中の有機体が手にみえるらしい)がはずれてるみたいだね。手にものってるね(時計が)。台もあるね。」

あれ、もしや絵を鑑賞する準備は整っているのか?生活と芸術に区切れが現れつつあるのかも、いつの間に?いや、描かれた事象の説明ができたり不思議を感じる程度では、それが芸術体験というにはまだ足りないし、そういう感じではなかったように思う。

僕の自意識レベルでの芸術の最初の原体験はハッキリとふたつ。

ひとつは3歳近辺で、UFOをみたこと。別に超常現象を信じたり、ムーを熟読してたわけでもないがこれ本当。今となっては現実だったのか、もしかして夢だったのかあやふやだけど、かなり具体的にその情景が脳の奥底に焼きついてる。

もうひとつは4歳、スーパーマリオブラザーズに触れたこと。細部にいたる世界観全てに魅了され、ひたすら没入した。シュールレアリスムに触れたのはマリオが最初だったと思っている。

どちらも、現実を飛び越えてるかつ、その魅力(=美?)に堕ちちゃう感じ。言葉以前に、強烈なわけわからなさがあった。それをまだ他人にはうまく伝えられなかった。(言葉で芸術を語ったり、体験を自ら生み出すのはかなり後だったように思う)

自分がそれを体験した年齢に、そろそろ子が重なってきている。もし彼にもそういう原体験がこれから訪れるなら、それを見逃さずにいたい。

しかしそんな自分の原体験はもはや遠く、40代にもなれば、現実の感じ方や受け入れ方における段階の変化を自覚するようになったり、芸術に関わって積もってきた諸々が役立ったり邪魔だったり思うようになってくる。

それでもまだ、今の状況を基として、強烈なわけわからなさをたぐり寄せることができるか、そこに集中したいと思ったところで、

みなさま、よいお年を!

山本雄基 個展
交錯情景
Humarish Club 藝術空間 (澳門路氹溜冰路澳門葡京人L01樓H853 Fun Factory 娛樂廠R68號舖)
2024年11月22日ー2025年 1月5日
12 : 00 – 20 : 00
http://www.humarish.com


5th Anniversary Exhibition
「都市と自然/Urban and Nature」
OIL by 美術手帖ギャラリー(渋谷PARCO2F)
Part1:2024年11月15日(金)〜28日(木)
Part2:2024年12月1日(日)〜16日(月)
11:00〜21:00
会期中無休
Part2会期に、新作2点出展してますのでぜひご覧ください。
https://oil-gallery.bijutsutecho.com

ーーーーーーー

年末感漂うなか、2つの展示が動いております。
今年は美術市場の不況のアオリがここにまで届いているのか、超赤字ではありますが、
そもそもフルタイム決め込んだ時点で、そんな可能性は承知の上でやってるので活動あるのみ。
幸い作品の内容には満足できてるし、展示もいい感じに決まっていると思う。
、、、とはいえやっぱりシビア!
行ったひとほぼ全員絶賛してる国立新美の荒川ナッシュ医、
見ときたかったけど飛行機チケット買う余裕ないっすわ。

ーーーーーーー
マカオ行ってきた雑感
・カジノホテルの規模、遠くからも目立つ独特のネオン看板夜景、地下鉄ないからタクシー移動増えがち。

・香港からの移動でも毎回パスポートチェックがある。

・まだコンテンポラリーアートのギャラリーやシーンはほぼ無くて、これからその基盤を作っていこうとしているらしい。

・30歳以下の若者世代やアーティストと話した感じ、マカオは街が狭く、思春期には退屈を感じ、進学で外へ出ることを考える。しかし中国はしかしマカオとは全然違う文化なので選択肢になりにくく、香港も最近の諸事情でなかなかシビア、それで英語などを積極的に覚えるのだと。なんとかして海外の大学を狙いたい若者が少なくないらしい。皆、2.3ヶ国語はペラペラで、コミュニケーション力も高く、しっかりしている。日本文化への親しみは強く、ドラえもんやちびまる子ちゃん、ドラゴンボールはTVで見て育ち、リアルタイムで漫画も読み、jpopもリアルタイムで受信してきたらしい。

・マカオと香港は街のマインドがかなり違くらしく、香港は中国と元々敵対的な構造で、返還前から本土を見下してる風潮もあったが、中国経済が上に向いてからは逆に上手に出られたり、返還後のさらなる関係悪化とはよく知られているところ。実際半日香港にも行ってみたけど、明らかに西洋人の比率が減っている。
一方マカオは昔から賭博特別地域のため、もともと中国からの観光客も多く、強いステークホルダーファミリーもいて、経済もほぼそのファミリーが握ってる関係からか、中国とのバランスの取り方が香港よりは安定している。うまいこと自由は確保できつつ、でもマカオだけでは街の規模も小さくて結局すぐつまんなくなるし、GDPが高すぎて住んでるだけで年間10万超のお金が支給されるという羨ましい話もありつつ、悩ましい部分も多々あると。


・タイパエリアの超人工的空間の連続(カジノホテルと巨大モールとがずーっと繋がってる。そういうのがたくさん並んでる)にだいぶ酔った。その真ん中にチームラボ美術館があって、どれ一度くらいは、、、と体感してみたら、更に酔った。


、、、など色々聞いたけど、台湾や香港などと共に、中国の影響力の大きさとそこからくる生活意識みたいな根本がやっぱりそれぞれ違いながらもあり、
その上で日本を考えてみると、これまただいぶ違うものだ、と実感する。

飛行機の中で読んだ、原田マハの「楽園のカンヴァス」、面白かった。
なるほどこういう美術の面白さへの導入もあるのか、、、それこそビジネスマンのためのアート!アート思考を身につける!系の本よりも、身に付く知識としても態度としてももしかしたら有効なのではないかな、、、

ーーーーーーーー
パルコ渋谷のOIL by 美術手帖での展示は、「都市と自然」と題したグループ展で、
僕は自然のグループに入っている。企画の方になんで自作が自然?と聞けば、
乱数を作品に使っているからとのこと。赤瀬川原平がどこかで乱数と自然の関係について書いていたという話も。
そういう誘われ方、嬉しいですね。

ーーーーーーーー
livedoorブログ、スマホでみると本当に不快な広告がデカデカと表示されて嫌すぎる。運営に言っても意味ない。前も書いたかな?
そもそももはやほぼ書いてないし見る人もどこにいるのやらという状況ではありますが、
PCで見ること推奨します。


「ART SESSION by 銀座 蔦屋書店」
会場|銀座 蔦屋書店内 GINZA ATRIUMほか
期間|2024年8月30日(金)〜9月2日(月)
〈招待者限定公開日〉
1日目 8月30日(金)16:00〜20:00
2日目 8月31日(土)12:00〜20:00
※両日ともに、17:00〜20:00にご招待者さま限定パーティを開催します。
〈一般公開日〉
1日目 9月1日(日)11:00〜20:00
2日目 9月2日(月)11:00〜20:00
主催|銀座 蔦屋書店
入場|無料

[参加アーティスト一覧]
青山哲士/赤池完介/新埜康平/一林保久道/井上魁/井上時田大輔/上野英里/内田涼/内田麗奈/大河原愛/大坂秩加/小田川史弥/小野耕石/片山穣/勝間田万綾/上岡拓也/亀岡信之助/川田龍/斉木駿介/鈴木勁/瀬戸優/高嶋英男/高遠まき/高橋大輔/高屋永遠/辰巳菜穂/津絵太陽/土屋仁応/土屋秋恆/寺尾瑠生/外丸治/内藤京平/中莖あかり/長嶋五郎/永田優美/ナカムラトヲル/西野達/西村大樹/二艘木洋行/林俊彬/平塚篤史/福濱美志保/藤田モネ/藤田勇哉/藤原康博/松岡勇樹/村松英俊/宮山香和/三輪瑛士/山なつ子/山田啓貴/山本雄教/山本雄基/𠮷田桃子/吉田紳平/米山舞・ヤノベケンジ/渡辺愛子/BIEN/BURUMORI/Chi Zhang/DEADKEBAB/Emilio Gracia/KATHERINE FRANKEN/Gabriel Moreau/HITOTZUKI/Kenta SENEKT/Lee So/Lu Gao/MONA SUGATA/Natsu Yamaguchi/SUGI

コロナ禍から子育てが連続してることもあり、人に会う機会が減ったままの生活。制作と生活でていいいっぱいなので、今はこのくらいでもちょうど良い。
息子が3歳に突入し、先月から幼稚園デビューした。
自由度の高い幼稚園で、なんか園全体がポジティブなエネルギーに溢れていて健全だ。子どもの活力だけでなく、場を作っている大人が物凄く考えて工夫しているからこその健全さ、素晴らしい。
子育ては、人がいろんな経験を通過して言葉とか行動とか自我を獲得していく姿を追体験できることが面白い。
例えば言葉でいうと、
時間に関わる言語の意味が5W1Hの中でダントツに難しいようで、「昨日」が今日より前のこと全てを指しているのを見て、細かい時間軸を頭の中で整理できることってすごいことなんだなと気付かされたり、
「とれる」(取り外すことができる)のことを、「とれれる」と言ってるのを聞いて、意味は理解しているが言い方確かに難しいわ!とか思ったり。
こういう順番とスピードで、言語感覚とそれに付随する世界の知覚は進んでいくのか、、、みたいな気づきが、たくさん見つけられる。
ついでに彼が発する言葉を英語に訳す癖をつければ、自分の英語の勉強にもなるのではと思いつき試してみたものの、
最近は関係代名詞の入る5語以上の文章になってきて、追いつけなくなってきた。英語3歳レベルだった。
一方もちろん面白いばかりでもなく、
超夜型生活から強制的に朝型生活せざるを得なくなり、午前中はずっと頭が冴えないし、
腰は壊れ、風邪うつりまくり、自分の時間が減り、
集中して展覧会を見られなくなったり本読む時間も激減した。
家にいる時間は常に子が何かしらの欲求をぶつけ続けてくるので、家で休んだ気にならない。
まあ次から次へと予期せぬ事態が起こり大変だけど、それ以上に全く新たな視点が得られることの方がずーっと大きい。
それに生活にそういう不条理ムーブが入り込んできても、まだまだ乗り越えがいがあると思える程度なので、私は元気です。
その影響なのかなんなのか、「美術」への情熱はちょっと低空飛行気味で、展示を見に行っても以前ほど興奮しないし、そもそも躍起になって展示を見まくったり情報を集めまくったりしなくなってる。最近見応え感じた展示は遠距離現在くらいかなあ。根本の原因はよくわからない。
とはいえ。
自分の制作に対する意識は変わらずガンガン手も動くし好調、むしろ謎の解放感みたいなのもある。しばらくこの感じでいってみる。

7月13日から大阪のN projectで個展があります!
初大阪展示、新作16点あります。
山本雄基「Duality」
2024. 7/13(土)-8/2(金)
月-金10:00-17:00、土11:00-18:00、
日祝休廊
※初日作家在廊
N project
〒530-0047 大阪市北区西天満5-8-8 2F
ーーーーーー
N project、似た感じの名前の場所もチラホラ思い浮かびますが、昨年からスタートした新しいギャラリーです。
Nは東京でグイグイ拡張してるNUKAGAのNで、大阪のここはまた別ラインで展開しているようです。
大阪での展示は初めてで馴染みないエリアなんですが、なくなった祖父母が戦後大阪から北海道に移住したひとたちで、ずっとありがとうを「おおきに」と言ってたり、関西弁は意外と遠いものではありません。そんなわけでなんとなく気になる場所ではあったので、嬉しいです。
会期中は中之島美とか国立国際でも話題の展示やってたりアート大阪とかもあるので、遠方の方もこの機会にいかがでしょうか。
まだ知り合いも多くないエリアなので、お近くの皆さま、ぜひお誘いの合わせの上、ご覧くださいませ!!!

2024_npro_soro_yy
 

「ファンダメンタルズ フェス(2021-2023)」

会期:
2023年12⽉16⽇(⼟)〜27⽇(⽔) 10:00-17:00

会場:

メイン会場|東京⼤学駒場博物館(東京都⽬⿊区駒場3-8-1 東京⼤学駒場キャンパス内)

交流会場*|東京⼤学駒場⼩空間(同上)

*交流会場は要申込。26⽇(⽕)・27⽇(⽔)の2⽇間15:30-17:30のみ。

申込:https://forms.gle/T6bTxZqHHuaZ2ihP9 (〆切12⽉25⽇17時)


⼊場:無料

主催 : ファンダメンタルズ プログラム

共催:東京⼤学 ⼤学院総合⽂化研究科・教養学部 駒場博物館

科学技術広報研究会 (JACST) 隣接領域と連携した広報業務部会

東京⼤学国際⾼等研究所カブリ数物連携宇宙研究機構(Kavli IPMU)

助成:公益財団法⼈東京都歴史⽂化財団 アーツカウンシル東京【芸術⽂化魅⼒創出助成】

公益財団法⼈ ⼩笠原敏晶記念財団

協⼒:東京造形⼤学

協賛:特定⾮営利活動法⼈ミラツク

僕は、数学者の巴山竜来さんとのペア名義の新作絵画などを展示します。
3DCGUVプリントでキャンバス絵画にする実験や、個人名義の小作もひとつ並べました。 


#詳細はファンダメンタルズのウェブページをご覧下さい。

https://www.fundamentalz.jp/post/20231216-fzfestival


00eR8r8X-2a1ede_d730b5c3a2384bbd90ec149efebbc1d5
eR8r8X-2a1ede_d730b5c3a2384bbd90ec149efebbc1d5_2

↑このページのトップヘ