自分にとっての芸術の原理とは。
自分が心奪われてきた芸術体験と、いま一度向き合って潜らねば、とか今年は考えていた気がする。
子どもがいま3歳半。この3年で、ひとがどのように世界を受け入れていくのかを家族として観察した。僕の最初期の記憶が2.3歳頃からなので、それ以前のことを子を通してそれなりに理解した。
3歳までは、毎日の生活と芸術体験との大きな違いはなかった(というか世界を知覚することが全時間の全て)と思うが、物凄い観察能力と様々な物事に出会った際の反応差、食べることと遊ぶことの嗜好の中に、芸術体験の原液のような感触はある気がする。
言葉の習得には関係するんだろうか。言葉が世界を規定していく。言葉が、もの、こと、人のこころ、とつながっていく。理解のスピードと習得のパターンの多様さにはもうついていけない。線や色も理解して、それらもすでに言葉とつながっている。
言葉の基本が整った最近になって、かっこいいとかかわいいとかおもしろいとか、そういう反応を記号的かもしれないが使えるようになってきた。
驚いたのが、何かの拍子でダリの記憶の固執を見せたら、息子がこんな反応をした。
「このとけいどうなってんの?木にぶらさがってるね なんで?ここにもなんかぶらさがってるね。テーブルにもあるね。青いこおりの色みたいだね。あまいのかなあ?ありさんきてるし。ひとの手(絵の真ん中の有機体が手にみえるらしい)がはずれてるみたいだね。手にものってるね(時計が)。台もあるね。」
あれ、もしや絵を鑑賞する準備は整っているのか?生活と芸術に区切れが現れつつあるのかも、いつの間に?いや、描かれた事象の説明ができたり不思議を感じる程度では、それが芸術体験というにはまだ足りないし、そういう感じではなかったように思う。
僕の自意識レベルでの芸術の最初の原体験はハッキリとふたつ。
ひとつは3歳近辺で、UFOをみたこと。別に超常現象を信じたり、ムーを熟読してたわけでもないがこれ本当。今となっては現実だったのか、もしかして夢だったのかあやふやだけど、かなり具体的にその情景が脳の奥底に焼きついてる。
もうひとつは4歳、スーパーマリオブラザーズに触れたこと。細部にいたる世界観全てに魅了され、ひたすら没入した。シュールレアリスムに触れたのはマリオが最初だったと思っている。
どちらも、現実を飛び越えてるかつ、その魅力(=美?)に堕ちちゃう感じ。言葉以前に、強烈なわけわからなさがあった。それをまだ他人にはうまく伝えられなかった。(言葉で芸術を語ったり、体験を自ら生み出すのはかなり後だったように思う)
自分がそれを体験した年齢に、そろそろ子が重なってきている。もし彼にもそういう原体験がこれから訪れるなら、それを見逃さずにいたい。
しかしそんな自分の原体験はもはや遠く、40代にもなれば、現実の感じ方や受け入れ方における段階の変化を自覚するようになったり、芸術に関わって積もってきた諸々が役立ったり邪魔だったり思うようになってくる。
それでもまだ、今の状況を基として、強烈なわけわからなさをたぐり寄せることができるか、そこに集中したいと思ったところで、
みなさま、よいお年を!
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