

岡崎さんはなにせ造形と批評の両刀使いで、その批評力の印象に引っ張れがちだが、一旦その難解な感覚を外してみて、タッチというか絵具の動き方とか、どこをどうマスキングしてるのかとか、そういう痕跡を追っていくだけでも無数の発見がある。実際ただベタベタ塗ってる箇所なんてひとつもなくて、めちゃややこしい操作の跡しかない。タイトルや額の使い方もそうだけど、全てがねじれまくっていて素晴らしい。
大きな絵画作品に絞って少し書くと、
基本構造は解説にも書かれていたようにユニットの連続で作られていて、その最小単位は1つの連続したタッチ。数色以内の重ね塗りや削り取りが折り合いながら塊を形成して島のように独立したユニットが必ずある。この最小ユニットの中を眺めているだけでも読みきれない動きの蓄積があって面白い(ちなみに小さい作品は最小ユニットの別展開を徹底してる)。その塊がいくつか集まって、1つの綿布パネルに配置されている。ユニット同士の境界とかを観察すると、塗りの差異が際立って見える。


(↑例えばこういう緑色の島みたいなのがユニット。右上の別の緑とは分離されている。
この緑色のユニットでは、透明な緑のベタベタが塗られてから、おそらく乾く前に不透明の明るいエメラルドグリーンのベタベタが重ねれれている。よくみると、エメラルドグリーンの2つの塊の右側がどちらも、下の緑と一緒に引っ張られてるような跡があるから、そう予測できる。同時に、乾いてない2つの別の色を重ねると、もっと混ざってしまうようなものだが、そうはなってない。それは、上の絵の具を塗るときにあんまり何度も葛藤せずに、一発でズバッと乗せているからなのではないか。)




(↑一枚の作品の中のいろんなユニットを注視してみた。どう塗ってるのかを想像しながら絵具の動きを追っていくだけで、かなり面白い。)
ユニット群はパネルからはみ出さないように配置される(3階の新作群でははみ出しを開放)。そのパネルが数枚集まって1つの作品になっている。そういう入れ子構造が、今展示では反復回転対称性の強い小部屋のユニットにまで連動していた。最大ユニットはたぶん、1階と3階の関係。階をまたいでほぼ同じ構造になっているので、(例えばレリーフ部屋とT字絵画の並びや、4ユニットの絵画の小部屋の形式)空間込みで、入れ子の迷路で往来する気分になった。

(1階)

(3階。1階とともに、大きな絵画の部屋はこのように、十字に区切った4つの小部屋の中央と各部屋の端が通路代わりのブランクになっていて、隣にも対角線上にも移動できるしぐるぐる周り続けることもできる。多少変則的に塞がれてるところもあるが、この対称性の強い4部屋のユニットが2つ続く構造は同じ。)

(1階)

(3階。一階のレリーフ部屋の真上がこの部屋。どちらも同じ形のシリーズが等間隔で並ぶ。)
迷子感覚を持たせつつ、時系列でも作品の流れが追えるようになっている。初期作品は、マスキングの仕込みがわかりやすく、筆跡に見える部分は事前にマスキングで形が決められている箇所が多い。絵具の動きとマスキングの形がある程度同期しているので、パッと見ではただベタベタ塗ってるだけに見えるのかもしれない。でもよく見たら、形と塗りは別々の処理が行われているので、認識にズレが起こる。




それが一旦認知できると、一気に画面の情報量が増えて、笑えるほどいろんな操作で痕跡のかたちを操作しているのがわかってくる。これもひとつのイリュージョンと言える。
岡崎作品への批判として、イリュージョン=いわゆる絵画ならではの奥行きがなく、綿布に絵具が乗ってるだけ、みたいなのがたまにあるけれど、痕跡の絶妙な同期とズレを眺めていると、そもそも絵画におけるイリュージョンの定義自体を組み換えようとしているように思える。従来の絵画の時空間の問題を継承するなら、キュビズムよりラディカルな多次元表現はなかなか難しい(とはいえ良い絵を描くことはそれはそれで可能)。なので、違うやり方で絵画に宿る時空間の可能性を都度解釈しながら、次元のパラメータをいかにして増やすかの表現を初期からずっと提示していたのではないか。後半になるほど、この構造は複雑化していく。量子力学の一般認知が少し進んだ今だと、見る側も多次元の咀嚼をしやすくなっているのかも。
また、ハナからイメージを描くというより、 絵具の色と痕跡の動きと質感の重ね合わせが、後から結果的にイメージのようなものを生成させていく感じ。これが、いわゆる絵画っぽくないのかもしれない。しかし絵画の定義や本質などもはや機能しないと思うし、むしろ広い色面とか筆による塗りとかを積極的に避けていて、そういうところがむしろおもしろいわけで。
絵具の痕跡の形も、時代毎に違うのもよくわかる。塗り方も塗ってる道具もかなり変えてて、どんなかたちかは明確にはわからないが例えばスパチュラ、柔らかいシリコンスプーン、左官道具、みたいなオリジナルの道具も都度自作してると思う。岡崎作品のスタートは、かたがみの存在が重要な要素になっていたけど、塗る道具もひとつの型と言える。






2枚組で同じ構図の作品では、ある道具で塗られた色の形を型でかたどり、もう片方側では、その形を絵具ではなく何も塗っていない隙間の形に逆転させたりもしている。そんな型の応用だらけ。下塗りナシの綿布に、あのような薄い厚いが混在するように絵具を塗ると、形のキワにボソボソが残ったり、塗りの失敗とか葛藤とかが残るものだが、岡崎作品にはそれがかなり無い。無いのに、ユニット同士の調和が成り立ってるのが恐ろしいところ。位置決めの下描き跡も当然ないし、塗り直しの跡もない。これも型の手法に関係しているはず。だから、画面に精神的な重さが残らず(かなり注意深く残さないようにしているんだろう)、色とも相まって軽やかに見える。唐突に画面上に絵具が出現してそのままビタッと定着してる、こんな見せ方は実はやってみると難しいはずだ。










2枚組or3枚組で似た痕跡や同じ構図を共有するシリーズはまるで、ドラゴンボールのセル編で、過去を変えるたびに違う複数の未来ができる(1992年)、みたいな考え方。(参考までに、DB公式サイトにこんな掘り下げコンテンツがあるとは。https://dragon-ball-official.com/news/01_708.html)



組シリーズでは構造や塗りの複雑な見せ方も充実している一方、必ず2枚を見比べないとそこに気づけないという要素が、たぶん次の展開を考える上で、問題点のひとつにもなっていたんだろうと思った。後のゼロサムネイルと合体パネル作品がその問題解決の糸口になっている。ゼロの方の額縁の構造とデカ作品の合体パネルの構造はその役割に共通性があって、外の領域と不可逆的に結びついてしまう造形の不思議とか、あり得るかもしれない別の可能性への視座を、一枚でも提示できるようにアップデートされている。


80年代後半のケネスノーランドのDoorシリーズや、ロバートマンゴールドの分割パネル作品にも共鳴しているように見える。美術史的にはあまり表に出てきにくい彼らのこの辺りのアプローチ、おそらく岡崎さんも何らかの意識をされていることだろう。

(ケネスノーランドのDoorシリーズ)

(ロバートマンゴールド作品。両作家も岡崎さんも、もう皆Paceの作家なんだよなあ。)
そんな中、たまに不思議な印象を与えてくる作品もあった。2019年の大作なんかは、絵具の痕跡も絵具が塗られてないブランク箇所の残り方もも今までにないギザギザが出てて、絵具もキャンバスにピタッと定着しておらず(もちろん綿布に絵具は定着しているのだが、周りの作品と比較すると、痕跡から受ける印象が違って、なんかこう浮いてるような感じがする。と個人的には思った)、2枚組で、絵と絵の距離もやたら離れていたし、小部屋ユニットからも独立した壁に配置されていた。
今までの筆跡を意図的に封印したためか、何か葛藤があったのか。


作品の構造だけでは説明しづらい、こういう時代毎の画面揺れも、たぶん反復回転空間構造のおかげで比較できてみえやすかったかもしれない。
2階の使われ方も、従来の展示空間よりも開放的に、1階のレリーフ部屋を俯瞰しながら転換期の作品群を鑑賞できたり、エントランス側の空間とも繋がっていて、風通しが良かった。支持体の方が動く自動描画マシンと並列して、脳梗塞の後遺症で動かない体を自身の意思による描写行為でリハビリしていく過程を見せている。


病後の3階の新作群は、全体を通して振り切れたスケール、作る喜びに満ちていて、ごちゃごちゃ考える以前に、明るくて、いい。
塗りの思い切りも増し増しになってて、エスカレーターを登って見えてくる最初の1枚から雰囲気が違う。
絵具の塊を、ボトン!と寝せたパネルに落としてから行為を加えてるようなその丸いボリューム感に驚き、もはや分厚くてドーム状になっている部分もあった。それも透明色で作られているので、分厚さの程度から生まれてくるグラデーション色が形成されていて、色表現の幅が一気に拡大されていた。ハチミツの糸のような痕跡も登場しており、絵具の粘度の違いも感じる。



加えて、画面外にむけて運動エネルギーを感じさせる太陽のプロミネンスみたいに伸びた楕円のような形状や、綿布パネルから大胆にはみ出した塊ユニットなども現れており、過去作では見られない痕跡の掛け算によって、やたら伸びやかな空間が現れてて、それが大変心地よくポジティブだった。







プロミネンス的痕跡も、よく見たらその方向に勢いよく絵具をストロークさせているわけではなく、見かけとは違う順序やスピードで作られている。もうマスキングがどこに使われているかも判別できないが、こういう部分で巧みに応用されているのでは?いや、もう使ってないんじゃないか、という話もあり、推測しきれない。
その他新作群では、グニャグニャした痕跡とシカクシカクした痕跡がメインになっている。基本的にはグニャグニャの方が岡崎さん特有の形態の特徴を感じるが、そういうクセを散らすように痕跡を複数化させているんだろうか。特にT型シリーズでは意図的にその差異を見せていた。 後半の綿布パネルの組み方はタテヨコの合わせ技が多く、画面の形の時点で垂直並行の強調が付与されていて、さらにシンメトリーが象徴的。





それにしても大作は初期から新作まで一貫して同じフォーマットの額装。画面と全く同じ大きさのほぼ同じ厚みの木製の額が裏に付いている。モンドリアンのような、台座とも言えるような額装形式を採用しているというのはある程度わかるけど、他の色や形に変えてみる可能性を見せずに、徹底して変えてないのははなぜなんだろう?

(↑これは、MoMAにあるモンドリアンのブロードウェイブギウギの額。作品の裏に、ひとまわり大きくて平らで白い台座のような額をつけている。)






(岡崎さんの大作の額は、初期から後半の組パネルになってもピッタリ作品と一致した木製の裏額になってる。)
4時間かけても追いきれず、3階まで見終えるとつい1階に戻って見比べたくなる、、、とにかく希望に満ちて多幸感ある色に包まれながらみっちり考えられる、稀有な展示でした。
モダニズムのハードコアから、何度もいろんな別のやりかたで一貫したビジョンを提示してきた岡崎さんには僕もかなり助けられた立場で、 特に2000年代前半の無理解の波に屈せず、こんな展示が今実現しているとは、遠くから追ってきた身としても感慨深かった。
キリがないのでひとまず終わり。
ところで最後のユニークなかたちの象作品。象の話は、「絵画の素」p317に、「ダンボ」と「1941」に絡ませながらでてきてたので、彫刻化されることに唐突な違和感はなかった。





話めちゃズレるが僕はスピルバーグ作品に何度も感銘を受けてきたんだけど、岡崎さんって1941だけでなく著作で度々スピ作品について語っているんだよな。A.I.もマイノリティリポートも宇宙戦争も。全部頷けるのでもっと岡崎乾二郎によるスピルバーグ論、聞きまくりたい。